じじぃの「科学・芸術_603_メーテルリンク『青い鳥』」

Livre Audio: L'Oiseau Bleu 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=Q7Fo_EYG4P8

青い鳥症候群 ウィキペディアWikipedia) より
青い鳥症候群は、モーリス・メーテルリンク作の童話「青い鳥」(仏: L'Oiseau bleu)の中で「主人公のチルチルとミチルが幸せの象徴である青い鳥を探しに行くが、意外と幸せの青い鳥は身近にあることに気付かされる」ことから、「今よりもっといい人が現れる」「今よりもっといい仕事が見つかる」など現実を直視せず根拠の無い「青い鳥」を探し続ける人たちを指す通俗的な呼称である。

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『幸福とは何か - ソクラテスからアラン、ラッセルまで』 長谷川宏/著 中公新書 2018年発行
青い鳥の象徴するもの――メーテルリンク より
ベルギーに生まれ、フランスで活躍した作家メーテルリンク(1862 - 1949)の『青い鳥』が世に出たのは、20世紀の初頭、1908年のことだ。チルチルとミチルの兄妹が青い鳥をさがし求めて夢のなかを旅するが見つからず、目が覚めてわが家の炉辺(ろへん)にそれがいるのに気づくという児童劇だ。
兄妹がさがし求める青い鳥は、劇中では幸福の鳥、幸福をもたらす鳥とされている。全身が青い鳥は、すっきりと形の整った、飛びかたにも無駄はなく、見る者の心を晴れやかにしてくれるすがたが思い浮かぶから、それが幸福と結びつくのはごく自然なことと思える。『青い鳥』の刊行以降、この劇作を離れて一般に青い鳥が幸福の象徴として人びとにイメージされるようになったのも、メーテルリンクの詩的想像力の卓抜さをものがたるものといってよかろう。青い鳥の青は味のあるやや深い青がふさわしいということになろうか。
が、見る者の心を晴れやかにしてくれる端正な青い鳥は劇中にはあらわれない。青い鳥らしきものはあらわれるが、それが幸福には直結しない。直結するようには思えない。メーテルリンクは幸福に直結する凛(りん)とした青い鳥を劇中に登場させない。夢のなかの旅でチルチルとミチルの前に青い鳥が最初に登場する場面は、以下のごとくだ。2人が「思い出の国」に行き、死んだ祖父母に出会う。
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祖父と祖母はツグミをいつもの見なれた鳥としか見ていないし、青い色をしているとも思っていない。青い鳥だと思って大喜びでかごに入れるチルチルのあいだに大きな意識の落差がある。そこに気になるところだが、話が全体として夢のなかのこととされているし、別けても青い鳥はいるかいないか、いるとしてもどこにいるか分からない幻想上の鳥だから、老人と子どもの意識の落差などさほど気にかける必要はないのかもしれない。
しかし、チルチルが青い鳥をかごに捕獲した「思い出の国」の場の幕切れは、簡単に見過ごすわけにはいかない。チルチルとミチルの兄妹が祖父母に別れを告げて「思い出の国」を去っていく場面だ。引用文中、「光はどこにいる?」というミチルの台詞にある「光」とは、擬人化されて登場人物の一人となった「光」を指す。
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劇中の台詞で「ほんとうの青い鳥」ということばが何回か出てきて、青い鳥に本物とにせもののあることが知られるし、現に「夜の御殿」の場でも、「ほんとうの青い鳥は、どこかへいってしまったのね……でも、また見つかりますよ」という、チルチルを慰める光のことばが発せられもするけれども、台詞にそれほどの力強さはない。前の場での青から黒への変色と重ね合わせると、本当の青い鳥の存在がかえって疑わしくなるような台詞だといえなくもない。
鳥の存在への疑いは当然にも、鳥の象徴する幸福の存在への疑いへと連なっていく。幸福を手にして旅から帰ってくるはずのチルチルとミチルが、幸福を得られないまま空手(からて)で帰るのではないか、幸福への願いはむなしい願いではないか、という疑いが胸の底に蟠(わだかま)る。消えずに残るその疑いをかかえつつ戯曲の後半を読み進むとき、『青い鳥』がいかにも20世紀の劇作だなと思えてくる。人びとの個人としての活動も集団としての活動も外へ外へと広がりながら、そのつながりが容易に幸福や幸福への願いに結びつかないのが20世紀的なことに思えるのだ。『青い鳥』はそういう時代を生きた劇作家が時代の空気を舞台の空気としえた名作だといえるように思う。