じじぃの「ブログ炎上・価値のないもの・評価されないもの!世界について」

van Gogh Starry Night

ゴッホが生前に評価されなかった理由は何ですか? 2016/7/2 Yahoo!知恵袋
回答
天才ってのはそういうものです。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11161160546
『世界について』 戸田剛文/著 岩波ジュニア新書 2011年発行
鉄壁の城塞――誰がなんと言おうとも より
話を具体的に進めるために、例をあげて考えていきましょう。山田さん(仮名)は、自称小説家で、いくつかの小説を書いています。ですが、その文章はあまりにも難解かつ論理的でもなく、要するに、なんだかよくわからないものです。ズバリ、その(自称)代表作のタイトルは『ラミアスの剣にボナセーラ』(略称『ラミボナ』)です。
いろんな人に見せたのですが、誰もその文章の良さがわからないとしましょう。結果的に、誰もその小説を評価しないのです。もちろん、出版社もその小説を出そうとはしてくれません。ですが、もちろん山田さんは、自分の書いたものがわけのわからないものだと思っているわけではありません。山田さんは、その小説に対して高い誇りをもっていて、ほかのどんな有名な小説家が書くものよりもすぐれていると思っています。むしろ、ほかの人気作家の書くものは、読者に媚(こび)をうり、無教養かつ美的センスのまったく感じられないものだとさえ思っています。そして、世の中の人々が、自分の小説に目もくれないとこに対してひどく憤慨しています。彼はいつも心の中でつぶやいているのです、「ああ、わては100年早く生まれすぎたんやわ。はたまた天才すぎたんかもやで。世の愚民どもは、わての才能をまったく理解せんたわけものや。このクソ、ボケ、カス……」
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私が話ししてきたことからは、次のようなことが言えると思います。それは、もし誰か一人でも評価する者、つまり価値を与える者がいれば、それは無価値ではないということです。私は先ほど、個人的な価値について2つの彷徨から考えなければならないと言いましたが、これが1つの方向です。こうして、個人的な価値(しかもその人しか評価しない価値)というものもまた、その価値を保証されることになります。さらに、この点についてもう少し付け加えておかなければなりません。それは、何かが価値をもつ場合に、その評価は必ずプラスである必要はないということです。先ほどの『ラミボナ』の場合について見て見ましょう。もしも山田さんが、自分の自信作に対して、周りの人があまりにも無関心な態度をとるので、この作品を世に問おうと決意し、インターネット上に自分のサイトを作り、そこに『ラミボナ』をアップロードすることにしました。そして、いろんな掲示板に、「この本すごい名作だね!」という感じで、他人をよそおって書き込みをしました。まあ、普通ならば、こういった場合でも、数人がちょっとリンクにとんで、なんだこれ、という感じでそのままスルーされたりするのがオチで、彼の場合も最初はそうでした。しかも、彼は自分のIDが掲示板のコメントのところで表示されているのを知らずに、複数の人が書き込みをしているように自作自演して、しかもそれがばれて、誰かからそのことを指摘され、あわててまた本人ではないなどと一生懸命書き込んだりしていたのですが、そのうち、幸運にも彼の作品に対するコメントが書かれるようになりました。もちろん、それは好意的なものではなく、「なんだあれは」とか「ひどい作品、いや作品というのも……」などの激しい批判でした。
彼は、すでにお話したような性格でしたので、怒り心頭に発し、さらには怒髪が天を突き、そういったコメントに対する批判ももうここでは書けないほどのひどい悪態で、しかも、わざわざブログを立ち上げて、そこに掲示板の批判、再批判を転載し、自分の作品を擁護し、同時に批判者をぼろっカスに言うということまでやってしまいました。さらに、そのブログが有名なブロガーのブログで言及されたために、怖いもの見たさの訪問者が殺到し、彼らがまた『ラミボナ』を批判するという、ブログ炎上の状態になりました。もちろん、ニュースや新聞などで取り上げられることなどはまったくないのですが、2ちゃんねらーなどのあいだでは、いっとき、ちょっとした話題になりました。まあ、ほんのいっときだったのですが。

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どうでもいい、じじぃの日記。
価値は社会の中の評価によって決まる。
価値というものはあるネットワークの中での評価によって決まる。
個人という領域もまた世界の中に含まれる、小さなネットワークのひとつだ。
自分が周りから認められなくてもいい。評価の領域を小さなネットワークに限定してしまえばいいのである。
自分が大切にしている価値観が周りから認められないようだったら、周りに言わず、自分という領域の中でもち続けていけばよいのである。
というようなことが書かれていました。