じじぃの「科学・芸術_553_児童文学『モモ』」

Momo: by Michael Ende モモ: ミヒャエル・エンデ 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=Np9yC3Bxt1Y
MOMO/ MICHAEL ENDE PARTE 1 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=DrQJ_4Vwn5k

名著100「モモ」:100分 de 名著
2020年8月3日 NHK Eテレ
【司会】伊集院光安部みちこ 【指南役】河合俊雄(京都大学こころの未来研究センター所長)
モモは心の中にいる! より
「時間とはなにか?」「いのちとはなにか?」「死とはなにか?」
誰もが心に抱いている根源的な問題を、ファンタジーという手法を使って、子どもにもわかる易しい言葉で考えさせてくれる文学作品があります。ミヒャエル・エンデ「モモ」。30ヵ国以上で翻訳され、今も世界中で愛され続けている作品です。
みすぼらしいほどちっぽけな存在「モモ」。
だけど彼女に話を聞いてもらうと、どんなに打ちひしがれている人もたちまち元気を取り戻す。モモを「私たち誰もがもっている奥深い自己の働き」ととらえると、エンデのメッセージが読み解けてくる。その働きの一つが「聴く力」。一流のカウンセラーにも通じるこの力は、いいかえれば「自分を空っぽにすることで他者を迎え入れ、よい方向に導いていく力」。誰の心の中にもこんな「モモ」が住んでいるのだ。第1回は、モモがもっている「聴く力」を通して、私たちがより豊かに生きるヒントを探る。
https://www.nhk.or.jp/meicho/famousbook/100_momo/index.html
岩波少年文庫 127 モモ 作:ミヒャエル・エンデ 訳:大島かおり 出版社:岩波書店
時間どろぼうと、ぬすまれた時間を人間にとりかえしてくれた女の子モモのふしぎな物語。人間本来の生き方を忘れてしまっている現代の人々に〈時間〉の真の意味を問う、エンデの名作。

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『自分と未来のつくり方――情報産業社会を生きる』 石田英敬/著 岩波ジュニア新書 2010年発行
『モモ』で読み解く労働と産業社会 より
きっと小学生のころに読んだっていう人もいるよね。『モモ』はミヒャエル・エンデというドイツの作家が1972年に書いた「童話」だといわれるけど僕はこの作品は、「童話」と言うより「寓話」って言ったほうがいいんじゃないかと思っています。それは、この作品が子どもだけに作られた物語ではなくて、大人でも楽しめる「寓意」、つまり社会とはなにかというたとえ話を含んでいるものだからです。
昔みんなが読んだときは、きっと「時間は大切だ」とか「あんまりせかせかするのはよくない」とか、そういうことを言ったお話だと思ったかもしれないね。でも実はこの作品には、産業とか資本主義っていうもののしくみが、しっかりと書き込まれているんだ。
まず、『モモ』って、どんなお話だったのか、一度復習しておこう。
あるときある町に、どこからともなくモモという不思議な女の子がやってきた。モモは町はずれの円形劇場の廃墟に住み着いて、町の人たちと仲よく暮らしていた。ところが、ある日突然その町に「灰色の男たち」がやってくる。彼らはみんな、「時間をムダにするな」「節約した時間を私たちの時間貯蓄銀行に預けなさい」って言ってまわるんだよね。気がつくと町の人たちはみんなかわってしまって、子どもまでもがいつも忙しそうにしている。モモと話をする人は誰もいない。実は灰色の男たちというのは、みんなの時間を奪う時間どろぼうだったからだ。彼らは人びとから盗んだ時間の花を葉巻にして、それを吸うことで生きている。モモは、『マイスター・ホラ』という時間の国に住む賢者に会って、時間の秘密を知る。そして灰色の男たちの手から、みんなの時間の花を取り戻しにいく――。『モモ』はこんなお話でした。
ところで、物語には「初期条件」っていうのがあるんだけど、知っているかな。物語のはじまりの状態のことです。大体の物語は、そこからなにかが起って、初期条件とは異なった状態になる。『モモ』で言うと、モモが町の人たちと仲良く暮らしていた状態が初期条件です。そして、灰色の男たちがやってきて、その状態が壊されてしまう。最初にあった秩序が壊されてしまうわけです。簡単な物語だと、そこからこう一度秩序が回復されて、お話は終わります。モモが、灰色の男戴からみんなの時間を取り戻したようにね。
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モモに話を聞いてもらうと、みんな幸せな気持ちのなれると言います。それはなぜでしょうか。
  たとえば、こう考えている人がいたとします。おれの人生は失敗で、なんの意味もない、おれはなん千万もの人間のなかのケチなひとりで、死んだところでこわれたつぼとおんなじだ。べつのつぼがすぐにおれの場所をふさぐだけさ、生きていようと死んでしまおうと、どうってちがいはありゃしない。この人がモモのところに出かけていって、その考えをうちあけたとします。するとしゃべっているうちに、ふしぎなことにじぶんがまちがっていたことがわかってくるのです。いや、おれはおれなんだ、世界じゅうの人間のなかで、おれという人間はひとりしかいない、だからおれはおれなりに、この世のなかでたいせつな者なんだ。
  こういうふうにモモは人の話が聞けたのです!
自分と未来のつくり方 より
エンデの『モモ』に導かれて考えてきたせいもあるかもしれないけれど、モモが住み着いた古代の円形劇場の跡に見られたような、昔はあった(かもしれない)ゆっくりと流れる時間や、つつましいけれど気持ちのこもった手仕事、貧しいけれど愉快な人びとの人間的なコミュニケーション――そういう牧歌的な生活、素朴な生活から僕たちの世界はどんどん遠ざかっているように思えてくる。
僕たちの「情報産業社会」には、『モモ』に出てきたよりももっとたくさんの「灰色の男たち」が侵入していて、しかも彼らの「時間を奪う技術」はもっと巧妙になって、人びとの生活は彼らの時間貯蓄銀行の「計算」のなかにどんどん組み込まれていっているのかもしれない。
『モモ』というのは、耳の形をした廃墟に住む、話を聞くのにすばらしい能力をもった女の子が、灰色の男たちに奪われた時間を人びとの手に取り戻してくれるっていうお話だったよね。
じゃあ、僕たちはいったい、この社会のなかで、どうしたらいきいきとした自分をつくり、希望のある未来をひらくことができるのだろう?