じじぃの「科学・芸術_549_ウズベキスタン・棉花と灌漑開発」

Horrors of Cotton Production in Uzbekistan 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=KbwlUgvaYPM
ウズベキスタン

アラル海の縮小

ウズベキスタン世界銀行が関係する強制労働 Human Rights Watch
世界銀行は、強制労働および児童労働に関与するウズベキスタンの農業事業に5億米ドルを融資していると、ヒューマン・ライツ・ウォッチおよびウズベク・ドイツ人権フォーラムが、本日発表の報告書内で述べた。
世銀との融資契約の下で、ウズベキスタン政府は強制労働および児童労働を禁ずる法を遵守することとされており、世銀は違反に関する信頼性の高い証拠があれば融資を停止することができる。
https://www.hrw.org/ja/news/2017/06/27/306035
ウズベキスタンを知るための60章』 帯谷知可/編著 赤石書店 2018年発行
社会主義建設と開発 棉花モノカルチャー化とその顛末 より
1917年の10月革命から間もない1918年5月、ヴラジーミル・レーニンは「トルキスタンでの灌漑事業への5千万ルーブルの拠出と右作業の組織について」という指令に署名した。そこには、フェルガナ盆地やゴロードナヤ・ステップ(直訳すると「飢餓のステップ」)での灌漑開発、ザラフシャン川でのダム建設と棉作目的の灌漑開発などが明記されていた。1916年のトルキスタン暴動や革命後後の内戦の影響でトルキスタンでの灌漑地面積が大幅に減少していたことが背景にあったが、この指令により、ボルシェヴィキにとって中央アジアでの開発とは第1に灌漑だということを、黎明期の社会主義国家は世に示すことになった。
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ウズベキスタンの文脈で社会主義建設と開発の結節点となったのが棉花栽培である。すでに帝政ロシア時代から植民地トルキスタン、さらに保護国のヒヴァやブハラでも農業の棉花モノカルチャー化が進んでいたが、ボルシェヴィキ政権下でそれがさらに推し進められた。1928年に第1時5ヵ年計画が始まり、ソ連国内で急速な工業化が目指される中、ウズベキスタンは繊維産業の原料たる棉花の供給基地として位置づけられた。気候的な要因と水資源の豊富さから、ウズベキスタン(及びその周辺地域)よりも棉作に適した地域はソ連国内で他になかった。1935年には棉花の国家による調達価格が引き上げられ、収益性の高い作物になった。1955年にはソ連は棉花の輸出国となっている。
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スターリンの死後、自然改造計画は即座に中止される。フルシチョフ時代以後は、短期的に農業生産を大幅に増やすことが追求され、牧草と休閑を含む輪作体系は放棄され、棉花の単作に移行することになる。同時に、前述のゴロードナヤ・ステップの開発に本格的に着手するなど、灌漑地の外延的な拡大が行われた。利用された灌漑地の面積は1960年から1988年にかけて約1.6倍増加した。これは増え続けるウズベキスタンの若年人口の就労対策の意味合いもあった。働き口がなければ共産主義建設などあり得ないからである。アム川下流域を中心に、湖畔に近い圃場では棉花に加えて稲作の振興も行われた。
このような状況の中、ウズベキスタンを含むアラル海流域では、経済的に利用可能な水資源の最大限の確保とその合理的な配分、ソ連のことばで言い換えるならば、「水資源の総合的利用・保護」が焦点となってくる。
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灌漑地の拡大を急ぐあまり、運河の構造は掘っただけの単純なもので圃場に水が届くまでにロスが多く、農薬や化学肥料が混じった灌漑排水の排水路の整備は後手にまわった。この灌漑地の拡大による水資源の利用量の増大と非効率な灌漑用水利用がアラル海の縮小とその後の災害化という「20世紀最悪の環境破壊」を引き起こしたことは論を待たない。輪作の重要性が再認識されたのはペレストロイカの時期になってからのことである。最終的にウズベキスタンの灌漑地のほぼ半数が塩害に悩まされる結果となった。このように、先進的な科学技術に立脚して質・量を兼ね備えた開発を行うというソ連の方針は成功せずに終わり、1991年にはソ連という国そのものが解体してしまった。