じじぃの「科学・芸術_532_アルゴリズム・命懸けの要求」

kid call 911 for help with math 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=YoTIaRyGzac
Woman calls 999 to ask for help

『WE ARE DATA―アルゴリズムが「私」を決める』 ジョン・チェニー=リッポルド/著、高取芳彦/訳 2018年発行
プライバシー 命懸けの要求 より
 マーク・ヘミングス(以下、マ):腹がすごく痛いんだよ。腹の中にかたまりがある。
 通報処理係(以下、係):他に症状はありますか?
 マ:すごく痛い。汗がたくさん出てだるい。丸一日くらいこうなんだ。
 係:下痢や嘔吐はありましたか?
 マ:腹がすごく痛い。あった。何回か吐き気がした。激痛なんだ。
 係:大動脈瘤やマルファン症候群だと診断されたことはありますか?
 マ:ない。腹に胆石があるんだ。腹が痛いんだ。
 係:上腹部に締めつけられるような痛みや、うずくような痛みはありますか?
 マ:たぶん。ある。
 係:腕、首、顎、肩は痛みますか?
 マ:ないよ。救急車を寄こしてくれないか?
 係:便の色は、黒、タール、赤、栗色でしたか?
 マ:いや。とにかくすごく痛いんだ。
    ・
いまのは2013年の会話だ。障害を抱えた41歳のイギリス人男性、マーク・ヘミングスは、イギリスで救急サービスの999に電話をかけた。オペレーターが出るやいなや、ヘミングスは症状を話し始める。「腹がすごく痛いんだよ。腹の中にかたまりがある」。オペレーターは「ほかに症状はありますか?」を皮切りに、次々と質問をする。ヘミングスは最初の質問にこう答える。「すごく痛い。汗がたくさん出てだるい。丸一日くらいこうなんだ」
オペレーターは質問を続ける。「下痢や嘔吐はありましたか」「大動脈瘤やマルファン症候群だと診断されたことはありますか?」「上腹部に締めつけられるような痛みや、うずくような痛みはありますか?」。ヘミングスは激しい痛みのなか、真面目に、しかし苦しげに、すべての質問に答えた。
彼は3回、救急車を送るよう求めた。また気の毒にも「すごく痛い」という単語を7回使い、言葉と口調の両方で痛みを訴えている。通話の終わりに、オペレーターは結論を伝える。「お話からすると救急車は必要ありません。でも別の者からあらためて電話を差し上げます」。
2日後、ヘミングスは床に倒れて意識を失っているところを訪問介護士に発見され、病院に救急搬送されたが、到着の30分後に息を引き取った。死因は胆石による膵管閉塞がきっかけの心不全。ヘミングスの自己診断は正しかったのだ。通常の手順で対処すれば、つまり彼の回答が救急搬送に値すると分類されていれば、命は助かっていただろう。実のところ、オペレーターからの一連の質問はアルゴリズムによるトリアージ(患者分類)システムの確認項目を読み上げただけで、ヘミングスを救うことではなく、彼の症状の緊急性を判定することを目的としていた。
ここでのインプットはヘミングスの口頭での答えだ。一方、アウトプットは救急車が送られるかどうかで、彼の回答に基づいて決まった。症状に変化がない限り、それ以上の行動は取ってはいけないことになっていた。アルゴリズムのロジックにどれほど依存していたかは、「もし倒れたり、意識を失ったり、応答ができなくなったり、失神したり、寒気がしたり、汗が出たりするようなら、999にお電話を」というばかげた指示によく表われている。オペレーター自身の人間としての行為主体性は、ただアルゴリズムの言葉を翻訳するだけのものに成り下がっていた。システムを信頼するあまり、オペレーターは落胆した様子のヘミングスに「これを無視することはできないんです。指定室としては、救急医療隊員に意見を聞くことはできますが、システムが間違った答えを出すことは考えかねます」とまで言っている。
ヘミングスは伝えた症状のデータは、救急治療に”値する”という定量的理念型に適合しなかった。彼が「すごく痛い」という言葉を使ったこと、オペレーターに繰り返し救急車を求めたこと、999の録音全体に彼の絶望したような声音が響いていることの意味は、アルゴリズムのシステムには読み取れなかったのだ。地域の病院で管理職を務めるある医師は、ただただ官僚的に、冷たく、奇妙な言い回しで断言した。「アルゴリズムはマークの利益にはならなかった」と。