じじぃの「科学・芸術_457_ベネディクト『菊と刀』」

Japan Episode 2 [The Sword and the Chrysanthemum] 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=moi3sgmr964
哲学入門97 ルース ベネディクト 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=m_Cw6XzcFvY
神風特攻隊

菊と刀』 のうら話(Behind the Scenes of “The Chrysanthemum and the Sword”) Pauline KENT(ポーリン ケント) 龍谷大学助教
私が初めて『菊と刀』を読んだのは大学四年生の時でした。西洋社会の「罪の文化」と日本社会の「恥の文化」の比較をしたらどうかと指導の先生に言われて、『菊と刀』を卒業論文の出発点にしたのです。卒業論文では宗教および文学の観点から罪と恥の比較をし、大学院では中世イギリスにおける罪と恥の意識を調べましたが、『菊と刀』はメインテーマではありませんでした。
しかし、日本では「恥の文化」といえばどうしても『菊と刀』を連想してしまい、「それじゃ、ルース・ベネ ディクトってどんな人でしたか」とか、『菊と刀』について質問されても返答できないことが恥ずかしく、ルース・ベネディクトや『菊と刀』について研究するようになりました。調べていくうちに『菊と刀』の裏にある研究状況もわかってきましたので、ここではベネディクトという人を紹介しながら、彼女が戦争中にどのように日本のことを研究したかをクリアにしたいと思います。
http://www.nichibun.ac.jp/graphicversion/dbase/forum/text/fn099.html
『経済成長という呪い 欲望と進歩の人類史』 ダニエル・コーエン/著、林昌宏/訳 東洋経済新報社 2017年発行
全体主義個人主義 より
農業革命以前の狩猟採集民の時代は平等社会だったが、農業により、王、領主、分益小作人、農民という序列社会が誕生した。そして工業社会の出現とともに、新たな変化が生じた。この変化をどう解釈すればよいのか。人類学者ルイ・ジュモンは、ありきたりな比較だが、現代社会の個人主義を伝統的社会の「全体主義」と対比させた。社会の実力者がその他大勢の人々の行動に支持を出すのが全体主義だ。これとは逆に、各自の欲求や行動から演繹されるのが個人主義だ。社会秩序の厳正な遵守が決定的な社会では、人々が称賛せずにはいられない『イーリアス』の主人公たちのように、個人が曲がりくねった悪路を自力で歩まなければならなかった。だが今日、誰もが自分たちの暮らしを最優先することの多い世の中では、社会的つながりは希薄になる。
ルース・ベネディクトは、ジュモンの理論を明快にしながら日本社会の「全体主義」的な特徴を叙述した。ベネディクトの本はアメリカ軍の注文に応じて執筆された。というのは、アメリカは日本という得体のしれない敵の心理を把握したかったからだ。ベネディクトは調査を終えると、菊と刀を出版した。この本は、生け花を楽しむ繊細な心がある一方で戦争中の数々の残虐さが存在するという、一見すると相容れない日本社会の2つの側面の根本原因をわかりやすく説明している。この本は日本人読者の間で、トクヴィル(19世紀フランスの思想家。『アメリカのデモクラシー』、『旧体制と大革命』で有名)の本がアメリカで出版されたときと似たような関心を呼び起こした。日本人読者は、外国人によって書かれたこの本の中に、自分たちの社会に浸透する驚くべき叙述を目の当たりにした。
日本は、「些細な振る舞いにまで決まりがあり、身分が固定された社会」と紹介された。男女は、とくに自分たちの家族や社会全体に対する借りを返すためにこの世に生まれる。この決済義務を少しでも怠り、これを償うことができなければ、身の破滅か自殺にいたる罰に処される。道徳、美意識、名誉に関する過ちは、個人を耐え難い孤独に追いつめる。そうした個人は自らの命を絶つしかない。このようにしてルース・ベネディクトは、事故の義務を怠るのを一切許さない社会で暮らす日本人が、なぜ重圧と怒りの間で心が揺れ動くのかを説明した。
日本社会は、ルイ・ジュモンのいう全体主義的な価値観の原型例だ。しかしながら、ジュモンは、現代の個人主義のために全体主義的な価値観を完全に捨て去るべきではないという。なぜなら、個人主義だけでは息苦しい社会になるからだ。