じじぃの「科学・芸術_428_14世紀・ペスト(黒死病)」

The Black Death - Tales from the Decameron Interview Preview 動画 YouTube
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ペスト(黒死病

『図説 不潔の歴史』 キャスリン・アシェンバーグ/著、鎌田彷月/訳 原書房 2008年発行
湯けむりにしのび寄る疫病 より
中世の人々の衛生にかかわることで、いちばん画期的な変化は、共同浴場が戻ってきたことだ。5世紀頃以来、西ヨーロッパのほとんどの地域で、この施設は消滅したが、ひどく数が減っていた。復活したのは十字軍のおかげで十字軍は東方遠征に失敗しては戻ってきたが、じつにありがたい慣習、トルコの風呂《ハマーム》の知らせをもたらした。皮肉なのは、少なくともいくらかはローマの浴場の消滅に対して責任があるキリスト教が、今度は、十字軍の副産物とはいえ、東方で変化を遂げた浴場を復活させたことについても責任があるということだ。おそらく早くも11世紀には、ヨーロッパ人は浴場を贅沢のリストに加えた。この贅沢のリストには、ダマスク織、鏡、絹、綿などもあったが、どれもアラブ世界で見つけてきたものだ。
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相変わらずたいへんな人気を博してはいたが、浴場は、15世紀から16世紀初めにかけてだんだんと、平和をかき乱し無作法なふるまいを助長させる場所と見なされるようになっていった。とはいえ、不謹慎だという評判が多少は浴場の信用を落としたものの、決定打となったのは、不埒というより病気だった。このときの病気、つまり腺ペストは、世界でもいまだに類を見ないほどの甚大な被害をもたらした大災厄で、14世紀半ばの4年間に、ヨーロッパ人の少なくとも3人に1人を死に到らしめた。<黒死病>と呼ばれたのは、罹患者の脚の付け根やわきの下や首筋に、独特の瘤(こぶ)ができるからだ。もとはアジアで発生し、ネズミを介してヨーロッパに菌が運ばれた。1347年初頭にはイタリア、イスパニア(現在のポルトガルとスペイン)、フランス、イングランド、ドイツ、オーストラリア、ハンガリーを襲い、1日に2.5マイル(約4キロ)広がることもあった。最初のペスト禍がおさまるまでには、2500万人が命を落としていた。
人々や社会がペストに襲われるようすを、ボッカッチョほど克明に記録した者はいない。ボッカッチョがペスト禍について書いたのは、ペストがフィレンツェを荒廃に陥れたすぐあとのことだ。『デカメロン』の100の物語が楽しく気軽に読めるものだけに、語り手たちが命からがらフィレンツェ郊外に逃げ出しており、迫り来る恐怖から目を逸らすべく話したものだということは忘れがちだ。いろいろな意味で逃避者の文学とも言える物語を始める前に、ボッカッチョは、ほとんど病理学の説明のように冷静な筆致でペストを語っている。祈りを捧げ、行列式を行い、最後まで衛生に努めようする甲斐もなく、病気はとどまるところを知らずフィレンツェじゅうに広がり、聖職者たちも医者たちもなすすべもなく成り行きを見守るばかりだった。病人たちは死の瘤が現れてからだいたい3日後には死んでいった。瘤(リンパ節の腫れ上がったもの)はリンゴほどの大きさになることさえあり、病人が触れたものに接した者には誰でも感染の危険が大いにあった。
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1538年には、フランス国王フランソワ1世が国内の浴場を閉鎖した。1546年には、イングランド国王ヘンリー8世がサザックの娼家閉鎖令を出した。1566年にはオルレアンに召集された3部会が、フランスの女郎屋を閉鎖し、まだ営業を続けていた浴場も女郎屋に含まれるとして閉鎖になった。「25年前のブラバンド(当時のネーデルランド)では、浴場ほど流行の先端を行くものはなかった」とエラスムスは1526年に書いている。「いまは浴場の影も形もない。このあいだのペスト禍で、われわれは浴場を避けるよう学んだのである」。
ざっと500年ものあいだ、水と湯は気持ちいいもの、愉しいもの、交際を広げるもの、誘惑に駆り立てるものであり続けた。そして、体を清潔にしてくれるものであり続けていたのだ。それなのに、ヨーロッパ大陸のほとんどの地域で、水と湯は憎むべきもの、なにがあっても避けるべきものに変ってしまった。エラスムスが浴場が姿を消したのを嘆いてから2世紀のあいだは、ヨーロッパは史上最も不潔な時代を迎えることになる。