じじぃの「人の生きざま_753_オノ・ヨーコ(前衛芸術家・音楽家)」

ファミリーヒストリー 170818 2017年8月18日「オノ・ヨーコショーン・レノン 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=TB4Td4EL8pw
Yoko Ono - Mrs. Lennon 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=9wZGwXFP7RY
John Lennon - Imagine 動画 Youtube
https://www.youtube.com/watch?v=YkgkThdzX-8
Yoko Ono, Sean Lennon

ジョン・レノンの名曲「イマジン」、オノ・ヨーコさん共作と認定 2017.6.16 産経ニュース
ビートルズの元メンバー、ジョン・レノンの1971年の名曲「イマジン」について、米音楽出版社協会が妻のオノ・ヨーコさんを「共作者」として認めた。米誌ビルボードなどが15日伝えた。
レノンはかつて「(イマジンの)歌詞もコンセプトも多くがヨーコからのもの」と英BBCのインタビューで語っており、「レノン/オノ作」のクレジットを付けるべきだったとの考えを示していた。
http://www.sankei.com/entertainments/news/170616/ent1706160004-n1.html
 ウィキペディアWikipedia) より
オノ・ヨーコ(Yoko Ono, 本名:ヨーコ・オノ・レノン、Yoko Ono Lennon, 日本名:小野 洋子、1933年2月18日 - )は日本・東京出身のアメリカで活動する芸術家、音楽家
ビートルズのメンバーであるジョン・レノンの妻であり、共に平和活動を行ったことや音楽面でも創作活動を行い共作を行ったことが知られている。ジョンの暗殺後も自らの音楽作品を発表し続けている。また著名な前衛芸術家の1人として、多くの前衛作品やパフォーマンスを世に送り出した。息子にミュージシャンのショーン・レノンがいる。
1959年から、ニューヨークを拠点に、前衛芸術家として活動を開始。1966年、活動の拠点をイギリス、ロンドンに移す。同年11月に個展を開催、その会場でジョン・レノンと出会い、1969年結婚。1960年代後半から1970年代にかけて、レノンとともに数々の創作活動や平和運動を行なう。レノン亡きあとも「愛と平和」のメッセージを発信し続け、世界各地で個展を行なうほか、ダンス/クラブ・プレイの分野ではビルボード・チャート1位に12曲を送り込み、この分野で最も活躍しているアーティストの1人である。

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ファミリーヒストリー 「オノ・ヨーコショーン・レノン 2017年8月18日 NHK
【出演】オノ・ヨーコショーン・レノン
ゲストはオノ・ヨーコさん、84歳。1969年にビートルズジョン・レノンと結婚し、前衛芸術家・平和活動家としても活躍してきました。
ニューヨークで行われた収録には、息子・ショーン・レノンさんも参加。夫亡きあとも芸術活動を続けられていたオノ・ヨーコさんは、一体どんなお人柄なのか。そして、番組で明らかになる彼女の家族とは?
https://www.nhk.or.jp/docudocu/program/1396/1804134/
8月18日、NHK ファミリーヒストリー 「オノ・ヨーコショーン・レノン より
ジョン・レノンの妻でアーティストのオノ・ヨーコさん。
そして、一人息子ショーン・レノンさんが家族の歴史と向き合います。
最近体調が良くないと報道されたヨーコさんでしたが、元気な姿を見せてくれました。
ヨーコ、「今ね、ちょっとすごい病気になって、みんながね、もうあと3週間ぐらいで死ぬんじゃないか、と言われていたけど、全然そんなことないの」
収録はヨーコさんが日本語版の画面を。そして、ショーンさんは英語版の画面を見るというスタイルで行われました。
父 英輔の思い出をこの人に聞きました。
昭和16年生まれヨーコさんの8歳下の妹 節子さんです。
節子さんは長年、世界銀行で働き、現在アメリカワシントンD.C.で暮らしています。
テレビカメラの前で小野家について語る事のなかった節子さんが今回取材に応じてくれました。
日本に残る磯子たちは空襲が激しくなると東京を離れ、そして終戦。4ヵ月ほど経った12月。
磯子たちは長野の疎開先から東京に戻る事になりました。
その時母 磯子に代わり、東京に帰るトラックを手配したのが当時12歳だった娘のヨーコさんでした。
そして、終戦から1年後父 英輔がハノイから戻ってきます。
昭和22年、横浜正金銀行の国内資産を受け継いだ東京銀行が誕生します。
英輔は外国部長兼秘書室長に就任しました。
小野家に久しぶりに平穏な日常が戻りました。
1966年、ロンドンで開かれたヨーコさんの作品展にふらりとやって来た人物がいます。
ビートルズのメンバーのジョンは、はしごを昇り虫眼鏡で天井にはられた小さなキャンバスをのぞき込みました。
そこにあったのは「YES」の文字。ジョンはこの言葉を全ての肯定と捉え感動します。
ベトナム戦争が泥沼化していた1969年、ヨーコさんとジョン・レノンは結婚。
ネムーンを「ベッドイン」という形で公開し反戦を訴えました。
ヨーコさんがジョンと出会う前の1964年自費出版した「グレープフルーツ」。言葉で読者に呼びかけていく作品です。
その中に出てくるあるフレーズがあります。
そして1971年、ジョン・レノンが発表したのが「イマジン」です。
「イマジン」が発表されてから46年経った今年6月。全米音楽出版社協会は愛と平和を歌ったこの曲に新たな見解を示しました。
そんな銀行家のDNAを引き継いだのがヨーコさんの妹 節子さんでした。
1976年、世界銀行に入行して以来アフリカや中南米地域の貧しい国々を支援する業務に力を注ぎました。
節子、「姉がステージに洋服を着て座っていたのが、誰かがその洋服を切っていくわけです。そうすると知り合いから、大変ですよ。あなたのお嬢様は裸になっていくのですよ。そういう言われたもんで、母も心配でした」
しかし、節子さんにはあの姿はまぶしく見えたと言います。
節子、「姉は本当にもう芸術家として、画期的なことを一人でやってみたと思います」
ヨーコさんのいとこで北海道大学名誉教授 小野有五さんは小野家について話しています。
「ヨーコさんの半生は平坦ではありませんでした。時に中傷を受ける事もありました。しかし、決してぶれる事なく愛と平和を訴え続けました」
オノ・ヨーコの作品世界は今では多くの人に理解され、世界各地で大規模な作品展が開かれています。
部屋の天井から吊るされた空の虫かごの数々。これもヨーコさんが平和への願いを込めた作品です。
かごの下に刻印された悲劇の日付。1914年、第一次世界大戦。1945年、広島原爆投下。
そして、1980年12月8日、ジョン・レノンの死。
夫が凶弾に倒れた後、ヨーコさんの心の支えとなったのが息子ショーンさんの存在でした。
ヨーコ、「私と一緒に書いたということになったら、あの『イマジン』という歌は消えちゃったと思うの。だからやっぱしよかったと思うの、ジョン・レノンが書いたということで。私の共作の部分は彼にあげようということで。彼にプレゼントしたかったのよ」
こんな作品があります。
壁には何枚もの同じ男性の肖像写真が並んで、展示されています。
ヨーコ、「誕生から死まで、記憶と虚構の中の自分の生涯に登場する男性たちを組み合わせた」
実は、この男性の肖像写真は父 英輔、夫 ジョン・レノン。そして、最愛の息子ショーン・レノンの顔を合成したものでした。
ヨーコさんが人生を通して愛し続けた男の肖像がそこにありました。