じじぃの「科学・芸術_194_抗生物質の開発」

penicillin 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=LhrJOHDEY1k

サイエンスZERO 「祝!ノーベル賞(1)大村智さん 微生物から薬を生み出せ!」 2015年11月29日 NHK Eテレ
【司会】竹内薫 (サイエンス作家)、南沢奈央 (女優)  【ゲスト】高橋 洋子 (北里大学 北里生命科学研究所 創薬資源微生物学 寄附講座 コーディネーター)
ノーベル医学・生理学賞を受賞した北里大学特別栄誉教授の大村智さん。オンコセルカ症などの画期的な治療薬「イベルメクチン」を開発し、10億人以上を病魔から救った功績が評価された。
イベルメクチンはどのようにして誕生したのか?
カギとなるのは微生物が持っている酵素。微生物は栄養分を吸収し分裂して増えていきます。この時に働くのが酵素。栄養分を分解して化合物を作り出します。
この化合物の中には生育に重要な化合物 一次代謝産物生育に重要ではない化合物 二次代謝化合物に分けられます。
この二次代謝産物の方には独自の物が多く、これこそがイベルメクチンの元となっています。
http://www.nhk.or.jp/zero/contents/dsp526.html
『1000の発明・発見図鑑』 ロジャー・ブリッジマン/著、小口高、諸田昭夫、 鈴木良次/訳 丸善 2003年発行
抗生物質の開発 より
1928年9月。スコットランドの細菌学者アレクサンダー・フレミングが細菌の培養皿を友人に見せているとき、はっと動きを止めた。手にしていた培養皿は細菌でおおわれていたが、一部にかびがはえており、そのまわりには細菌がなかったのである。
レミングはロンドンのセントメアリ病院にあるサー・アルムロス・ライトのワクチン研究所で働いていた。そこでこのかびを多量に培養し、抽出したものをペニシリンと名づけた。彼はペニシリンを分析し、目の感染治療に用いて研究論文を書いたが、ワクチンの方に興味があったのでそれ以上の研究は行なわず、ペニシリンは研究室で扱うのが一番だと結論づけた。
10年後、イギリス、オックスフォードのサー・ウィリアム・ダン病理学研究所で働いていたドイツの生化学者エルンスト・チェインは、上司のオーストラリアの病理学者ハワード・フローリーに、ペニシリンの研究を提案した。フローリーは、ペニシリンが動物の体内の細菌に影響を与えるかどうか調べることにした。これはフレミングが試さなかったことだった。チェインはかびから活性成分を分離する作業にとりかかった。
1940年5月、フローリーは8匹のマウスに致死量の細菌を注射し、そのうち4匹にペニシリンを注射した。翌日、ペニシリンを与えなかったマウスは死亡したが、与えた4匹は元気だった。フローリーは同僚に”奇跡だ”と電話した。
フローリーは人間の患者にもペニシリンを試したかったが、十分な量を生産するには研究室を工場のようにしなければならなかった。まもなく研究室は配管と蒸気でいっぱいになった。
1941年2月、初の人体実験を行うのに十分なペニシリンが生成できた。2月12日、重度の感染症を患っていた警察官のアルバート・アレグザンダーにペニシリン投与を始めた。劇的な効果があり、ほぼ回復したが、ペニシリンが足りなくなり、アレグザンダーは死亡した。その後、5人の患者がペニシリン投与を受け、全員が回復した。何人かは死ぬところをペニシリンに救われたのである。
フローリーは大量にペニシリンをつくる決心をした。戦時のイギリスでは援助してくれる人はいなかったので、米国に渡った。米国の専門家たちはかびを培養する方法を改良し、ある製薬会社がペニシリンの大量生産を始めた。1941年12月に米国は戦争状態に入ったため、ペニシリンの需要は増すと思われた。
イギリスではフローリーの研究は生産を増やし、化学薬品会社の援助を受け、さらに試験を重ねた。1943年、ペニシリンが命を救う薬であることに疑いの余地がなくなった。こうしてフレミング、チェイン、フローリーのおかげで、初の抗生物質が生まれた。それから数年のうちに他の抗生物質もいろいろ発見された。抗生物質は、何百万人もの命を救っている。