じじぃの「科学・芸術_178_カナダ・生き残りのケベック」

カナダ・ケベック 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=1iJ0nEyFDJg
ケベック州

カナダシアター連携企画 テーマのある旅 〜 カナダの歴史を謎解
●カナダ建国の歴史をたどる旅
2017年に建国150周年を迎えるカナダの、建国の歴史に触れる旅。 カナダ東部の人気観光地での歴史ツアーです。
赤毛のアンの島として有名なプリンスエドワード島と、中世ヨーロッパのような城壁と石畳が印象的なケベック・シティ、そしてナイアガラの滝への旅は、カナダ東部でも人気の組み合わせです。 しかし、単なる人気観光地というだけでなく、実は、カナダ建国の歴史にも大きく関係する街なのです。
400年以上前に、カナダ最初のフランス植民地となり、英仏の戦いが繰り広げられたケベック・シティ。 200年前に英米の抗争の場であったナイアガラ・オン・ザ・レイク。 150年前に近代国家建設のための会議が開かれたシャーロットタウン。 カナダの歴史の一幕に触れる旅はいかがでしょうか。
http://www.canadiannetwork.co.jp/canada/theatre/tour005.html
ケベックを知るための54章』 竹中豊/著 赤石書店 2009年発行
イギリス領以降のケベック (一部抜粋しています
イギリスとの植民地抗争に敗北して以降、かつてのヌーヴェル・フランスは大きく変貌する。地理的には1763年2月のパリ条約でその領土が大きく縮小され、さらに同年10月の「国王宣言」によって、フランス系住民の集中するセントローレンス河沿いの地域は、細長い台形の区画内に縮小される。そして北米16番目のイギリス植民地として「ケベック植民地」が誕生し、ひとまず新しい境界線が確定した。また、フランス人の政治的・経済的支配のほとんどは敗戦後、本国に帰国してしまう。このイギリスの勝利と、それがフランス系住民い与えた影響については、いまだに論議が尽きない。
18世紀後半から20世紀半ばすぎまでのケベック史をとらえるのに鍵となる「言葉」が2つある。1つは「生き残り」。支配的なイギリス文化圏に囲まれたなかで、そのアイデンティティを堅持する生き方である。もう1つは、「内向的メンタリティ」。ケベックは、かつての宗主国フランスという中心から見放された閉鎖的傾向に陥っていく。経済的にもまずイギリス、後にはアメリカ資本の強い支配下に置かれ、フランス系住民は社会経済的な劣位状況に甘んじざるをえなかった。この「生き残り」と「内向性」とが相互矛盾をはらみながら、その後の約200年のケベック史が築かれていったのである。
フランス系ケベックはなぜ生き残れたのか。いい換えれば、なぜ勝者であるイギリスの文化に吸収・同化されずにすんだのか。たしかに、ケベックではフランス系人口がイギリス系を圧倒していた点や両者で文化原理が違うなど、諸要因はあろう。しかし第1義的には、イギリス政府の発布した「ケベック法」により、彼らの文化的アイデンティティが保証されたことによる。といっても、これはイギリスがフランス系ケベックに温情的理解を示したためではない。むしろイギリス側にとって、そうすることが自分たちの利益に適う、と判断した政治的打算による。
まず、これにはアメリカ独立戦争にいたる動きと深い関連がある。南のイギリス植民地(後のアメリカ合衆国)は、本国政府の発する各種の課税策に反旗を翻していた。それはまた、経済的な圧迫や圧政からの解放、代議政治の確立、自由を求めての動きでもあった。「ケベック法」はこうそたなかで彼らの動きを牽制する意図をもって発布された。
この「ケベック法」の要点は、(1)イギリス植民地人の西部漸新を阻む「ケベック植民地」の領土拡張、(2)フランス系に対するカトリック信仰の自由の補償、(3)フランス民法の温存、(4)領主制の温存、などにあった。
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1867年、”近代国家”としてのカナダ連邦が誕生した。これをコンフェデレーションという。カナダ史全体の文脈からすると、連邦結成の背景には植民地間の経済的連帯にむけて「連合カナダ」側から沿海植民地への働きかけ、そしてアメリカ合衆国の存在があった。つまり、イギリスの植民地内での政治的不安定は、隣国アメリカの南北戦争に見るような”分裂の危機”に陥りかねず、また合衆国に併合される潜在的脅威もあったのである。こうしたなかで、植民地統合への動きはまず1864年プリンス・エドワード島のシャーロットタウン会議、それに引き継ぐケベック会議にて、72ヵ条からなる連邦構想「ケベック決議」が決議された。やがて、試行錯誤を経ながらもついに1867年7月1日、ケベックオンタリオ、ニュー・ブランズウイック、ノヴァ・スコシアの4つの州からなるコンフェデレーションが成立した。北米のイギリス植民地は、「英領北アメリカ法」(現在の「1867年憲法」)のもと、「ドミニオン・オブ・カナダとして誕生したのだった。
連邦国家が成立したとはいえ、それはアメリカ合衆国の独立宣言のように高邁な理想を掲げて”建国”されたわけでなかった。植民地の歴史、権益、政治文化などをそれぞれ異にする集合体であったから、それは妥協の産物でもあった。誕生初期のこの連邦国家は、州政府に対して一定の権限を付与しつつ、基調としては中央政府に強い権限を委ねていた。
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結局、「カナダ連合」植民地議会の「東部」(ケベック)では、連邦結成をめぐる採択において賛成37対反対27の票差で可決し、カルチェらの主張が通る。しかし、フランス系議員に萩って見ると、評決は賛成26対22票の僅差であり、圧倒的多数の賛成というわけではなかった。ケベックはコンフェデレーションにあたって、統一国家カナダの一員になることを躊躇していたことがうかがえる。いわばその”後遺症”が、今日の「分離・独立」派、あるいは「主権」派の政治表現としてつながっている。