じじぃの「科学・芸術_122_ハックスリー・非執着と愛」

BraveNewWorld 1980 part2 動画 Youtube
https://www.youtube.com/watch?v=uNaa48Z-3ww

ハクスリーとは コトバンク より
オルダス・レナード・ハクスリー(Aldous Leonard Huxley, 1894年7月26日 - 1963年11月22日)はイギリスの小説家,評論家。
生物学者 T.H.ハクスリーを祖父に,J.ハクスリーを兄に,詩人 M.アーノルドを母方の親戚にもつ。イートン校を経てオックスフォード大学を卒業。医学を志したが,眼疾のため文学に転向。

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ひるまえほっと 2017年3月8日 NHK
【案内人】中江有里(女優・作家)
日々のくらしに役立つ“旬”情報満載! 関東1都6県のネットワークを生かして、各放送局のリポーターが「食」や「旅」「健康」「趣味」など旬の話題をたっぷりとお伝えします。
中江有里のブックレビュー 「すばらしい新世界
西暦2540年のロンドン。
理想郷に疑問を持つ人たちを待つ運命は? SF小説不朽の名作の新訳版。
https://www.nhk.or.jp/shutoken/hirumae/book/201611index.html
『20世紀英米文学案内17 A. Huxley ハックスリー』 成田成寿/編 Kenkyusha 1967年発行
すばらしい新世界」 Brave New World より
<梗概>
この新世界は科学の極度に発達した世界であり、宗教は要らない。ただT型自動車を考案、発売して、自動車の大衆化に成功したヘンリー・フォードがあがめられている。この世界はそのT型の年、1908年を紀元元年と定め、これは、フォード紀元632年の話なのである。隔週の木曜日は団体礼拝日とされ、人間の個性を抹殺する儀式がとりおこなわれる。賛美歌は「フォード様、われら12人を、1人となさせたまえ」とうたう。人々はT字を切る。ソーマ(Soma 快楽の特効薬)がまわされる。だれの顔にも、融合の極地を味わったものの、恍惚の表情が読みとれる。それがバーナード(アルファ、ベータ、ガンマ、デルタ、エプシロンの階級のうち、最上位のアルファの階級の青年)にはくらしい。彼はいやというほどあがなわれなかったものの孤立感に悩まされる。
人工孵化・条件反射教育センターの看護婦をつとめるアルファがレーナ・クラウンである。彼女はバーナードのことを「妙な人」と考えている。ソーマも飲まず「ぼくはぼくのままでいたい」などと口走る男は、この世界では、「芸を仕こんでものみこまない犀(さい)のようなもの」と思われても無理はない。ただバーナードが近くニュー・メキシコへ飛んで野蛮人保護地区を見物する計画をもっていることが魅力で、バーナードに同行する。
2人は野蛮人保護地区で白人の青年ジョンに会う。ジョンはリンダという元来はベータの女性の子供であって、ロンドンのあの教育センターの所長トマスの実の子であることが判明する。リンダは、子供を生むなどということを恥と思うベータであるが、この野蛮国には人工流産所などないのであるから、仕方なかった。ジョンには母にまつわる思い出が多い。リンダは文明国の流儀で、多くの男たちと関係を結ぶ。その結果、男の妻たちにいびられたこと。リンダを「お母さん」とよんだとき、頬をたたかれて、「お前まで野蛮人になりさがって!」と叱られたこと。また母は文字を教えてくれた。彼女の持ちもののなかには『シェイクスピア全集』というものがあったこと。現在ジョンは、この社会で疎外された存在だった。孤独であった。バーナードはジョンにロンドン行きをすすめる。喜んだジョンはミランダの言葉を引用して「ああ、すばらしい新世界」と口走る。シェイクスピアの『あらし』(The Tempest)に出るミランダなどという人物のことを、文明人バーナードは知るよしもない。シェイクスピアというのは、多い昔の、まだ世界が未開であった頃の人物であって、文明人たるものが知っているはずもない人名なのである。
野蛮人保護地区で異常な人間達やその生活に接して疲れたレーニナは、休憩所でソーマを飲んで眠りにおちる。ジョンはその寝姿に見とれる。若者の心を悩ませる焦燥。
<解説>
以上が『すばらしい新世界』のあらましである。これが物質文明と人間的価値との、機械と神との、また知性と感情との、相剋を描いた小説であることは、一読して明らかである。
ハックスリーがH・G・ウェルズ流れの、科学の発達に人間の未来をかける、という考え方に、ロレンスとともに、反対であったことは、『対位法』1つ読んでみてもわかることである。反ウェルズ的な考え方は、早くも第一次世界大戦以前のイギリスにあったのであって、E・M・フォースターの『機械は止まる』などはその代表的な例である。個性の無視と人間性の抹殺をもってする社会改革は、人間を幸福にするものではないことを、いち早くフォースターが指摘したことに、ハックスリーはひそかに拍手を送っていたことだろう。
だがハックスリーの関心事は、単なる科学文明批判ではない。科学の発達に基礎をおいた現代文明が、残忍な全体主義の形をとって人間の価値をふみにじる現実が我慢ならなかった。だから、ハックスリーの未来小説は「未来」の空想を目的とするものではない。われわれはこの『すばらしい新世界』という作品を1930年前後の世界史の中において眺めみる必要がある。
評論 その他 より
思想の変遷に注意しながら、ハックスリーのエッセイをひとわたり紹介するのが、筆者の課題である。だが扱うべき先品はあまりに数多く、内容も多彩である。創作面で詩、戯曲、長編・短編小説とあらゆる分野を開拓したハックスリーは、エッセイの面でも社会評論、宗教論、文学論、芸術論、旅行記、伝記、風俗批評等々と、驚くべき多方面の仕事を残している。もちろんそのすべてが思想と無縁ではない。純粋な芸術論も、パーソナル・エッセイの文体も、いわゆる思想的エッセイ以上に作家ハックスリーの思想をよく表現しているといえなくもない。だがそう考えれば作品の選択は不可能となる。ここでは短い随想や文学論・芸術論は大部分割愛したうえで、この作家の一応の歩みを追うことで満足するほかはない。
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さて、以上の基盤にたって、理想の生き方を考察するところから、ハックスリーは筆を執る。理想の社会像については、イザヤからマルクスに至るすべての予言者がほぼ等しいことを説いている。自由、正義、平和、同胞愛の行われる社会がそれである。相違はただその実現法にある。だが理想社会の人間像にはなにが求められるべきか。ハックスリーによれば、それは自己にも、権力、財宝などにも執着しない「非執着」(non-attachment)の態度であり、それに根ざした「愛」(charity)の実践である。この目標に向かって努力を尽くすべきだというのである。
今日変革を唱えるものの多くは、社会組織を改革すれば人間問題も解決されるという。はたしてそうか。確かに人間性は不変ではない。だが人間性の根本にまでさかのぼった解決がなされぬかぎり、機構改革のみではあまりに不充分であり、ひとつの悪を他の悪に変えるだけである。個人の内面的改革こそ肝要である。つまり改革は「正しい、平和で、道徳的にも知的にも前向きで、執着をもたぬ責任ある男女が構成する共同社会」を作り出す方向に向かってなされるべきであり、それは(1)正しい理想に向かって、(2)正しい手段で行う必要がある。なぜなら誤った手段は目的を損ない、人間性までゆがめるからである。むろん誤った機構は排斥すべきであり、それゆえ現在の資本主義機構は改革すべきだが、前述(1)により、国家主義全体主義は避くべきだし、(2)により共産主義も排すべきである。
結局かれの政治的立場は穏健な社会主義ともなろうか。近代社会は少数者が支配し、民衆は隷属する。国家主義は戦争の危険が伴う。支配者が保身や自己主張の目的で戦争に訴え、民衆も偏狭な愛国心に目がくらみ、敵ならざる他国人と銃を交える愚を犯すからである。中央集権は寡頭政治を生み、全体主義への道を開くゆえ、極めて危険である。だから地方分権地方自治組織の拡充こそ急務である。また経済的不平などを打破するとともに、食糧の確保を目指し、戦争を防止し、教育と宗教の力によって非執着の人間を作るよう最善を尽くすべきだというのが、本書の提案である。