じじぃの「神話伝説_177_神は妄想である・殉教者」

Killing ISIS (Uncensored full mini-documentary) 動画 Youtube
https://www.youtube.com/watch?v=pqj4WzgnxDc
Martyr St. Maximilian Kolbe

『歴史が後ずさりするとき――熱い戦争とメディア』  ウンベルト・エーコ/著、リッカルド・アマデイ/訳 岩波書店 2013年発行
カミカゼと暗殺者 より
少し前、もちろんあの運命的だった9月11日の同時多発テロ事件以前のことだが、インターネットのいくつかのゲームの中に、なぜ日本軍の神風特攻隊はヘルメットをかぶっていたのか、という質問が出回っていた。いったいなぜ敵の航空母艦に突っ込んでいこうとする人間が頭を守る必要があったのかということだ。本当にヘルメットをかぶっていたのか。彼らは額に儀式的な鉢巻を巻いていたのではなかったのか。いずれにしても常識が提供してくれる答えは、ヘルメットはエンジン音で耳が聞こえなくならないためのも役立ったこと、死への急降下を始める前にあるかもしれない敵の攻撃から自ら守るためでもあったこと、そして何にもまして(と私は信じているが)、神風特攻隊員は儀式を守り規則に従う人たちだったので、手引書に飛行機に乗りこむ際はヘルメットを着用せよと書かれてあればそれに従ったのだ、というものだ。
冗談はさておき、この質問は他人を殺すために自分の命を冷静に放棄する者の前で、われわれ一人一人が感じる戸惑いをあらわしている。
同時多発テロ事件以降、われわれは(当然ながら)新しいカミカゼ隊員がイスラム世界の産物であると考えている。これは多くの人を、原理主義イスラム教という方程式に導くし、またカルデローリ大臣に、これは文明の衝突ではない、なぜならば「あいつら」は文明などではないからだ、と言わせてもいる。

                            • -

『神は妄想である―宗教との決別』 リチャード・ドーキンス/著、垂水雄二/訳 早川書房 2007年発行
「穏健な」宗教がいかにして狂信を育むか より
2005年の7月に、ロンドンは集中的な自爆テロの犠牲となった。3件は地下鉄で、1件はバスでおこなわれた。2001年の世界貿易センターへの攻撃ほど悪い状況ではなく、予想されていなかったものでもなかったが(実際のところ、ブレアがブッシュのイラク侵攻の不本意な共謀者の役割を私たちに買って出させて以来、ロンドンはまさにそうした事件を警戒していた)、それでも、ロンドンの爆弾事件は英国を震え上がらせた。新聞には、何がいったい4人の若者をして、多数の罪なき人々を道連れに自爆するように駆りたてたのかについての、苦渋に満ちた論評が溢れた。殺人犯はイギリス市民であり、クリケットが好きで、礼儀正しく、仲良くつきあうことができるような類の若者たちだった。
      ・
《ニューヨーカー》誌の2001年11月19日号には、もう1人の自爆未遂犯をとりあげたナスラ・ハッサンによるインタビュー記事が掲載されている。彼は「S」という名で呼ばれていた27歳の物静かなのパレスチナ人の若者だった。そのインタビューでは、穏健派の宗教指導者や教師が説く天国の魅力が、詩のようにあまりにも言葉巧みに語られているので多少長めに引用する価値があると思う。
 「殉教の魅力は何ですか?」と私は聞いた。
 「精霊の力が私を上に引っ張り上げているのにたいして、物質の力は私を下に引っぱるのです」と彼は言った。「殉教を決意した人間は、物質の引力に免疫力をもつようになりました。計画の立案者は『もし作戦が失敗したらどうする?』と質問しました。私たちは彼に、『いずれにしても、私たちは預言者とその仲間たちに会いに行きます。すべてはアラーの思し召しのままに』と言いました。
 私たちは、もうすぐ永遠の世界に行くのだという気持ちのなかで、ふわふわと漂い、泳いでいました。私たちは何の疑問ももちませんでした。私たちはアラーの前で、コーランに誓い――心が揺らぐことがないという固い誓約――をしたのです。
      ・
もし私が「S」であれば、立案者にこう言いたい誘惑に駆られることだろう。「ねえ、もしそうなら、なぜあなたは口で言うだけでなく自分の首をかけないのです? なぜあなたは自分で自爆の使命を実行して、天国への特急列車に乗らないのです?」。しかし、私たちにとってもっとも理解が難しいのは――非常に重要なので繰り返して言えば――、これらの人々は、自分たちが信じているということを実際に信じているということである。宿題として持ち帰るべきメッセージは、宗教上の過激主義を責める――あたかも、それが、本物のまっとうな宗教が堕落してできたおぞましい変種ででもあるかのように――のではなく、宗教そのものを非難すべきだということなのである。ヴォルテールがはるか昔に正しく理解していたように、「不条理なことをあなたに信じさせることができる人間は、あなたに残虐行為にかかわるようにさせることができる」。バートランドラッセルもそうだった。「多くの人間は、考えるよりも先に死んでしまうだろう。実際、彼らはそうしている」。
宗教上の信念は、それが宗教上の信念であるというだけの理由で尊重されなければならないという原則を受け入れているかぎり、私たちはオサマ・ビン・ラディン自爆テロ犯が抱いている信念を尊重しないわけにはいかない。ではどうすればいいのか、といえば、こうして力説する必要もないほど自明なことだが、宗教上の信念というものをフリーパスで尊重するという原則を放棄することである。それこそが、私がもてるかぎりの力をつくして、いわゆる「過激主義的な」信仰に対してだけでなく、信仰そのものに対して人々に警告を発する理由の1つなのである。「中庸な」宗教の教えは、それ自身には過激なところはなくとも、門を開けて過激主義を差し招いているのである。
ただここで、宗教上の信念になんら特別なところがあるわけではない、という反論が出てくるかもしれない。自分の国や民族集団に対する愛国主義的な信条もまた、それ独自の過激主義に都合のいい世界をつくろうとすることがありえる。そう、日本の神風特攻隊やスリランカタミール・タイガーのように、そういうこともありうるのだ。しかし、宗教上の信念は合理判断を沈黙させるもっとも有効な手段であり、通常、他のあらゆるものに勝つ切り札のように見える。私の思うに、これはもっぱら、死が終わりではなく、殉教者の行く天国はとりわけ栄光に満ちたものであるという、安易で魅惑的な約束のゆえであろう。しかし、宗教上の信念がまさにその本性において、疑問を抱くことを抑圧するというのも、理由の一部になっている。