じじぃの「神話伝説_174_神は妄想である・パスカルの賭け」

人間にとって【 神 】とは 何か? モーガン・フリーマン 動画 dailymotion
http://www.dailymotion.com/video/x4jx7cy
Atheists, there is a good 50/50 percent chance that God exists!! (Argument from Pascal's Wager) 動画 Youtube
https://www.youtube.com/watch?v=J1R1Nek4h-c
祈りの手

NHKドキュメンタリー 時空を超えて 「人間にとって“神”とは何か?」  2016年4月15日 NHK Eテレ
【案内人】モーガン・フリーマン
唐突ですが、神様はいるのでしょうか?
人は万物を超越した存在を信じてきました。神様です。そして、その神様の教えとされる、宗教も信じてきました。
何か周りの物事からメッセージを受け取っている、と考えることは信仰の深い人特有の考え方ではありません。誰にでもある事です。
信じる事は外の世界を認識する第一歩と言われています。外界に生きる知能の発達した人間は、物事の理由や意味を考え、そしてそれを信じずにはいられないのです。
人のものに対する存在の認識は脳の中で行われます。では、宗教は脳の中でどの様に認識されているのでしょう。
http://www.nhk.or.jp/docudocu/program/3452/1988002/index.html
ニカイア信条 Wikisource より
我らは、唯一の全能の父なる神、すべて見えるものと見えざるものの創造者を信ずる。
また我らは、主イエス・キリスト、神の御子、御父よりただ独り生まれたるもの、神より出でたる神、光より出でたる光、真の神より出でたる真の神、造られず、聖父と同質なる御方を信ずる。その主によって、万物、すなわち天にあるもの地にあるものは成り、また主は、我ら人間のため、我らの救のために降り、肉をとり、人となり、苦しみ、三日目に甦えり、天に昇り、生きている者と死んでいる者とを審くために来たり給うのである。
我らは聖霊を信ずる。
主の在し給わなかった時があるといい、生まれ給う前には主は在し給わなかったといっている者ら、または、異なった存在または本質から出でたもの(被造物)といい、変質し異質となり得る御方であると語る者を、公同かつ使徒的なる教会は呪うものである。

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『神は妄想である―宗教との決別』 リチャード・ドーキンス/著、垂水雄二/訳 早川書房 2007年発行
パスカルの賭け (一部抜粋しています)
フランスの偉大な数学者ブレーズ・パスカルは、神が存在するという確率がどんなに小さくとも、神の有無についてまちがった推測をしたときの報いには、かなり大きな非対称性が存在すると考えた。
あなたは神を信じたほうがいい。なぜなら、もしあなたが正しければ永遠の幸福という利得を得るが、まちがっていたとしても、いずれにせよ失うものはないだろう。それに対して、もしあなたが神を信じないとして、それがまちがっていることが判明すれば、あなたは永遠の苦しみを得ることになるが、正しかったとしても、何の利得もない。悩む必要がないのは明らかだ。神を信じなさい。
けれども、この論証には、はっきりとおかしいところがある。信じるというのは政治問題とはちがって、あなたがどうするか決定できるものではない。少なくともそれは、自分の意志で決定できるものではない。私は教会へ行くかどうかを決定できる。私はニカイア信条を唱えるかどうかを決定できるし、聖書に手を載せて、そこに書かれているすべての言葉を信じると宣誓するという決定をすることができる。しかし、これらの行為のどれ1つとして、私が信じていないものを実際に信じさせることはできない。
パスカルの賭けは、神を信じているふりをするための論証でしかありえない。そして、あなたが信じると主張する神は全知という類の存在ではないほうがいいだろう。さもなければ、神はその偽装を見抜いてしまうだろうから。「何を信じるか」ということが自分で決定できるものだという馬鹿げた考えは、ダグラス・アダムズの『ダーク・ジェントリーの全体論秘密探偵社』において、もののみごとにからかわれている。そこにはロボットの電子僧侶が登場するが、それは「あなたにかわって物事を信じてくれる」、労働節約型の装置である。宣伝によれば、デラックス型は、「ソルトレーク・シティ(モルモン教の本拠地)では信じられないようなことを信じさせることができる」というふれ込みの商品だ。
しかし、いずれにしてもなぜ私たちは、「神を喜ばせたいならば、しなければならないのは彼を信じることだ」という考えを、そんなに簡単に受け入れてしまうのだろう? 信じることの何がそれほど特別なのだろう? 神が親切、寛容、あるいは謙遜、あるいは誠実という報償をくれるだろうというだけのことではないのだろうか? もし神が科学者で、心理を真っ正直に追及することが最高の美徳であるとみなしていれば、どうなるのだろう? 実際、宇宙の設計者(デザイナー)は科学者でなければならないということにならないのか? バートランド・ラッセルは、もし彼が死んで気がついたら神の前に立っていて、ラッセルがなぜ神を信じなかったのか理由を知りたいと要求されたら、どう答えるのかという質問を受けた。「証拠が十分でななかったのですよ。神様、十分な証拠がなかったからですよ」というのがラッセルの答であった(私はこれはほとんど不滅の答だと言いたい)。