じじぃの「人の死にざま_1741_ソール・ベロー(小説家)」


Saul Bellow: Rejections Are Not Altogether a Bad Thing Big Think
Saul Bellow (1915-2005) was an acclaimed Canadian-born American writer.
During his lifetime, he was awarded the Pulitzer Prize, Nobel Prize for Literature, the National Medal of Arts, and three National Book Awards for fiction. An influential and prolific author, some of his most famous works include The Adventures of Augie March, Henderson the Rain King, and Seize the Day.
http://bigthink.com/words-of-wisdom/saul-bellow-rejections-are-not-altogether-a-bad-thing
雨の王ヘンダソン (中公文庫) - 1988/2 ソール・ベロー (著), Saul Bellow (原著), 佐伯 彰一 (翻訳) amazon
生に倦み、内的欲望に駆られ、富からも教養からも逃れ、アメリカを捨てアフリカ奥地をさまよう初老の男ヘンダソン。その空しい冒険を乾いた笑いのうちに描き出し、病める現代の混沌と無秩序を暴く、アメリカ文学の白眉。

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『/ヒロインから読むアメリカ文学 板橋好枝/編 勁草書房 1999年発行
両性具有への希求 ベロー『雨の王ヘンダソン』 (一部抜粋しています)
戦後のアメリカ文学を「代表する」ユダヤ系作家、ソール・ベローは、ユダヤ的伝統を受け継ぐヒーローをとおして、極度に機械化され組織化された現代=アメリカに生きる人間の自由の可能性を探ってきた作家である。最初の小説『宙ぶらりんの男』(1944)は第二次世界大戦をその背景とし、無差別大量殺戮が行なわれるさなかにも人間は自由でいられるのかという問題を提示し、『犠牲者』(1947)では、ニューヨークを舞台に、いわれなき迫害を受けたユダヤ人の主人公が、逆に、加害者でもあった可能性を示すことで、高度に文明化した都市に住む現代人が、被害からも加害からも無縁ではいられないことを示唆している。
また、『オーギー・マーチ』(1953)では、ピカレスク・ヒーローが、個人の自由を脅かす外的力からの逃亡を、ハック・フィンのようにユーモラスに語り、『この日をつかめ』(1956)では、拝金主義がうずまくウォール街を舞台に、金で自由が買い取れると信じたヒーローの経済的・精神的破綻がコミカルに描かれる。
作家としてスタートして以来、ニューヨークやシカゴといった大都市を舞台に、ユダヤ人男性の目をとおして、人間性への探求を続けてきたベローが、5作目の『雨の王ヘンダソン』(1959)では、ゴイ(非ユダヤ教徒)であるばかりか、アメリカ社会のヒエラルキーの頂点に位置する大富豪のワスプ(WASP)を主人公に設定し、文明国アメリカからアフリカへと旅立たせている。つまりベローは、ヘンリー・アダムズのように「最高の条件」をもち合わせた主人公に、従来のユダヤ・ヒーローにはできなかった冒険を実験させているのだ。『この日をつかめ』の主人公ウィルヘルムにはなかった経済的自由を与えることで「選択」を可能にし、『犠牲者』の主人公レヴェンサルの被害者意識を取り払うことで、言動の自由を広げることができた。事実、ワスプのヘンダソンはユダヤ人に対する差別的発言をすらはばからないのである。
『ヘンダソン』がベローの他の作品と異なる大きな要素は、主人公をワスプに設定したこと以外に、もう1つある。それはこの作品に登場する女性の描かれ方である。
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ヘンダソンは、とりわけ、悲惨のさなかにも生の喜びを享受している「ビター」と呼ばれる女王、ウィラタールに激しく惹きつけられる。ビターとは「ただ存在するだけで充足している人」をさし、女性であると同時に男性でもある人のことだという。ジャン・リビスによれば、哲学者A・コレ―は、原初の状態のアダムが両性具有であり、完全な存在であったと述べているという。
またプラトンは『饗宴』において、アリストファネスの口を借りて、原初の人間が女と男を合わせもつ両性具有者であったこと、そしてその原初の両性具有への憧れが「エロス」であると述べている。プラトンがいうエロスとは、現代的な意味でのエロスではなく、むしろ天上的な愛「アガペー」をさすと考えてよい。ウィラタールが脱落論のアダムの状態、すなわち2つの性に分化する以前の「全き人間」であるとすれば、アーニュイ村は追放前の楽園、すなわち宇宙との完全な調和を具現する。アフリカの描写に音楽と踊りが道あふれているのは、ヘンダソンにかけている宇宙との調和をさし示すためである。
ヘンダソンのウィラタールへの憧れは、アガペーへの発露であり、彼女が言う「グラン=テュ=モラニ」(人は生きたい)、すなわち、「全き人間」へ向かう衝動の表れである。そして彼女は、リリー同様、彼の変革の可能性を慈愛深く保証してくれる代理母なのである。しかし両性具有を実現するためには、マスキュリニティという固い鎧を打ち破り、内なる女性性を解放しなければならない。それにはワリリ族のダーフ王によるライオン療法を待たねばならない。ウィラタールは両性具有の可能性を示すにすぎない。