じじぃの「未解決ファイル_284_ピーター・パン・シンドローム」

本当は恐いピーター・パン

『ピーター・パン シンドローム―なぜ、彼らは大人になれないのか』 ダン・カイリー/著、小此木啓吾/訳 祥伝社 1984年発行
ピーター・パン人間の誕生 より
私たちは誰でも、あの陽気なピーター・パンが出てくるワクワクするようなおとぎ話を思い出す。ソフトで繊細で、けっして成長しない少年の話だ。彼は私たちに永遠の若さを教えてくれた。フック船長をまごつかせたのも彼だからできたこと。彼の歌と踊りにつれられて、残酷なフック船長すら、船べりからお腹をすかせたワニの大きな口の中へ、落ちてしまったほどだ。
ピーター・パンは、若々しさのエッセンスのシンボルである。歓びである。そして、疲れることを知らない精神の持ち主である。ピーターがフック船長の海賊旗を分捕り、ティンカー・ベル(妖精の女の子)とはしゃぎまわるところを想像するだけで、私たちの心に潜む子ども心を目覚めさせる。誰もが、どうしようもなく、彼に惹かれてしまう。彼はほんとにすてきな男の子だ。彼は私たちの永遠の遊び相手であり、私たちのハートに触れ、みんなの魂を若さの泉で満たしてくれる。
しかし、J・M・バリーが創り出したピーター・パンに、もうひとつの面があることを、どれだけの人が気づいているだろうか。この魅力的な物語を、なぜ、もっと深く突っこんで考える懐疑的な人はいなかったのだろうか。なぜ、ピーターはいつまでも若いままでいたいと望んだのか、その理由を考え、不思議だと思った人はいないのだろうか。
ピーター・パン人間の正体 より
これまで見てきたとおり、PPS(ピーター・パン・シンドローム)の症状というものは、この年齢にかならず現れるというふうに、あらかじめ決まっている、といった種類のものではない。生物学的な発達と心理学的な発達の双方がかかわっているが、この両者は互いに影響しあい、密接に関連しあっている。
ナルシシズムは、前に触れたようにショービニズムとともに中間段階の症状の1つで、この2つはPPSの4つの基本症状の相互作用から生まれる。ナルシシズムの種はかなり幼い頃に蒔(ま)かれているにもかかわらず、はっきりとした形になるまでに時間がかかる。それはナルシシズムは、いろいろなほかの要因に左右される度合いも高いので、それほど肥大しないですむ場合もある。
ナルシシズムの種は、貪欲な2歳児が、何でも自分の思うとおりにしたがる時に蒔かれる。もし大甘の両親が、泣く子には勝てないと、この横暴な2歳児の言いなりになるとしたら、どういうことになるか。その子は、親の庇護という安全な環境の中で、自分の未熟さや不完全さにまるで気づくことなく大きくなってしまう。だが、こんな子どもの心の中のナルシシズムが本格的に花開くためには、どんな犠牲を払っても自分を目立たせたいという態度が身につき、無責任、不安、孤独、性役割の葛藤というPPSの4つの基本症状が定借する思春期を経なければならない。
つまり、こうしたPPSが定着して、何も手が加えられないまま、19歳か20歳になると、ナルシシズムは頂点に達するのである。ちょうどそれは、思春期から成人期への移行の時期で、この時期の若者の心は自分の不完全さに気づくと、鋭く痛む。もしこの若者が、自分の生活をコントロールできるようになり、自分の限界を認め、過ちから学ぶ気持ちになれば、PPSを克服して大人になるという課題をこなすことだって可能だ。
しかし、もし若者が自分の限界を認めず、自分の完全さにとらわれるなら、不安のために現実から隔てらたまま、独房の中で暮らす人生へと、その第一歩を踏み出すことになる。
ナルシシズムは、魔法の粉を振りかけて遊ぶといった無邪気な戯れではない。PPSに現われるナルシシズムは、とても危険で、つねに現実との遊離をともなう。それは理性的な判断、合理的な思考、常識――そのどれから見ても理屈に合わない奇妙な考え方をつくりだす。

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どうでもいい、じじぃの日記。
ピーター・パンは、若々しさの象徴である。
だが、ピーター・パンにはもうひとつの面がある。なぜ、彼はいつまでも若いままでいたいと望んだのか。
ピーター・パンのように、いつまでも大人に成り切れないでいる状態を「ピーター・パン・シンドローム(PPS)」と言うらしい。
ほとんどの少年は、年齢とともに自分の才能の限界を認めていく(イチローのようなのもいるが)。
「しかし、もし若者が自分の限界を認めず、自分の完全さにとらわれるなら、不安のために現実から隔てらたまま、独房の中で暮らす人生へと、その第一歩を踏み出すことになる」
ナルシシズムは、魔法の粉を振りかけて遊ぶといった無邪気な戯れではない。PPSに現われるナルシシズムは、とても危険で、つねに現実との遊離をともなう」
私も、そんな人生を歩んできたような気がする(人を殺したりはしていないが)。