じじぃの「科学・芸術_19_東京大空襲」

B-29 Airplanes In WW2: The Last Bomb - 1945 Educational Documentary - WDTVLIVE42 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=T-XdIVmo_-k
 東京大空襲 B-29爆撃機

カーチス・ルメイ

オリバー・ストーンの告発 語られなかったアメリカ史 (2)』 オリバー・ストーン&ピーター・カズニック/著、鳥見真生/訳  あすなろ書房 2016年発行
虫けらのように忌み嫌われていた日本人 (一部抜粋しています)
日本への原爆投下決定について理解するには、その決定を支持したアメリカ人の心情を知る必要がある。アメリカの戦時プロパガンダでは、邪悪なナチス指導者と、一般の「善良なドイツ人」とは慎重に区別されていた。しかし、邪悪な日本人指導者と”善良な日本人”とはまったく区別されていなかったのだ。
アメリカ人はきわめて深い憎しみを、兵士や民間人の別なく、日本人にいだいていた。「おそらくアメリカ史上、日本人ほど忌み嫌わた敵はいなかったろう」ピュリッツァー賞受賞の歴史家アラン・ネヴィンスは書いた。1945年1月のニューズウィーク誌は、「わがアメリカ軍がこれほど憎悪し、心底殺してやりたいと思わずにいられない敵と戦った戦争は、かつて一度もなかった」と報じている。
日本人嫌いとしてつとに有名なのが、南太平洋方面軍司令官ウィリアム・”ブル”・ハルゼー提督だ。彼はしばしば「黄色いサル(イエローモンキー)を殺せ」とか、「もっとサル肉を作れ」などと言って、部下を奮起させた。
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戦時中に日本兵がなした行為には、良心のかけらもないものが多かった。しかし、それは日本人だけにとどまらない。アメリカ兵も、時には陰惨きわまりない行為におよんでいたのだ。
太平洋戦線のアメリカ人従軍記者エドガー・ジョーンズは、戦場での残額行為などは日常茶飯だとは知らない民間人は、思い違いをしているだけだと、と書いている。ともあれ、一般市民は、われわれがどんな戦争を戦っていたのかご存じだったのだろうか?」彼は1946年2月号のアトランティック・マンスリー誌で問いかけた。「アメリカ兵は捕虜を平然と銃殺し、いくつもの病院を襲撃し、救命ボートめがけて機銃掃射し、敵国の一般市民を殺したり虐待し、負傷した敵兵にとどめを刺して殺害し、瀕死の者を死体の埋まった穴に突き落とし、太平洋では、殺した敵兵の頭蓋骨を煮て肉をはがし、骨を削って恋人のために、テーブルアクセサリーやペーパーナイフを作ったりしていたのだ」
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アメリカ人の道徳観には何が起こったのだろう? いつからアメリカ人は、人の苦しみ、そして、大量の民間人を殺傷することに鈍感になっていったのだろうか?
突然、道徳観が変わったわけではない。アメリカ人のモラルは、敵国の一般市民に対する長年の空爆、とくに日本に対する空爆で劇的に低下したのだ。最初の都市攻撃は、第一次世界大戦中に断行された。ドイツ、イギリス、フランス、イタリア、オーストリアが、互いに敵国の年を爆撃したのだ。2つの世界大戦をつなぐ20年の戦間期にも、残虐になされた例がある。
この点、1937年に日本軍が行なった上海ほか中国諸都市への空爆に対し、アメリカが強く抗議したことは賞賛できる。またヨーロッパで戦争が勃発した時、ローズヴェルトは、非武装の民間人に対するものをふくめ、「非人道的で野蛮な攻撃」はひかえるように、と交戦諸国に呼びかけている。
しかし戦争が長引くにつれて、アメリカ人の道徳レベルは落ちはじめる。ドイツとイギリスは相手国の都市部を爆撃し合い、きわめて多数の民間人を殺傷していたが、総じてアメリカは、主要な差bb業施設や交通網をねらう精密爆撃に限定していた。その方針が変わりはじめたのは、1943年10月の、ドイツのミュンスターへの絨毯爆撃からだった。1945年2月には、アメリカ軍はイギリス軍とともに、ドイツ本土空爆の中でも最大で、もっとも残忍なドレスデン爆撃を行っている。
その成果から、アメリカは日本に対し、さらに無慈悲な戦略爆撃を採用することになる。第21爆撃軍司令部司令官ヘイウッド・ハンセル准将が、大都市部への焼夷弾使用に抵抗したため、代わりに、はるかに血気盛んな少将カーチィス・ルメイが送りこまれてきた。
ルメイのあだ名は頑固者を意味する「鉄のロバ」。あまりにも冷酷で、きつい要求を押しつけてくるからだ。彼はヨーロッパでの空襲で名をあげてきた。そして、それまでの爆撃戦術に革命を起こし、すでに「恐怖爆撃」と呼ばれる絨毯爆撃を、日本において、はるかに残虐な「無差別爆撃」へと変容させたのである。
1945年3月9日から10日にかけての夜間、ルメイは、ナパーム、テルミット、黄リン、その他可燃物質からなる焼夷弾を搭載したB-29爆撃機334機を、東京に送り出した。ナパームはゼリー状の物質で、何にでも、たとえば人の皮膚にもはりつき、900度から1300度の高温で、最長で15分間燃えつづける。
史上最大規模の空襲と言われた東京大空襲では、約41平方キロメートルにおよぶ市街地が破壊され、10万人以上が死亡し、それ以上の負傷者が出た。街は灼熱地獄と化し、水路の水は煮え立ち、金属類は溶け、人々は火災に包まれると同時に焼失した。ルメイは、犠牲者は「黒こげになり、蒸発し、からからになって焼死した」と報告した。
5月までには、投下爆弾の75%が焼夷弾になり、建物の多くが紙や木材から造られていた日本の「木製の街」は焼き尽された。日本の歴史学者田中利幸によると、アメリカは、100以上の都市w焼夷弾で攻撃したという。1945年8月1日から2日にかけての夜には、富山市焼夷弾が投下され、市街地の99.5%が破壊された。