じじぃの「人の死にざま_1690_マイロ・ラウエル(米国軍人・GHQ)」

日本国憲法誕生 全編 動画 Youtube
https://www.youtube.com/watch?v=L4xiKi2pHLM
マイロ・ラウエル ウィキペディアWikipedia) より
マイロ E. ラウエル(英語: Milo E. Rowell、1903年7月25日 - 1977年10月7日)は、アメリカ合衆国の軍人、弁護士。連合国軍最高司令官総司令部GHQ/SCAP)民政局で日本国憲法マッカーサー草案作成を担当した。
【経歴】
1943年年10月、東京のGHQ/SCAP民政局で行政課計画班(Planning Unit of Public Administration Branch)員。1946年1-2月、同局作業グループ法務班長(Chief, Judicial Affairs Unit of Operations Group)を務め、主に新憲法制定問題を担当。コートニー・ホイットニー局長やチャールズ・L・ケーディス次長の下で大日本帝国憲法の分析や憲法研究会案の検討などを行い、マッカーサー草案の作成の際、運営委員会の構成員であった。この時期の階級は陸軍中佐。
1965年、自身が所蔵していた新憲法制定に関するGHQ/SCAP側の記録「ラウエル文書」の複写を、元内閣憲法調査会会長高柳賢三に寄贈。同文書は、現在東京大学図書館や国立国会図書館憲政資料室に収められている。

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『20世紀を一緒に歩いてみないか』 村上義雄/著 岩波ジュニア新書 2001年発行
憲法――日本人の意思も生きた (一部抜粋しています)
戦争放棄をうたった第九条や基本的人権尾尊重を明記した「日本国憲法」の登場は、まさに新鮮だった。1946年(昭和21)11月に発布、翌47年5月3日に施行され、世界に向かって戦後日本の新しい出発を告げた。敗戦で疲弊しきった焼け跡に開いた大輪の花とも見えた。が、やがて「押しつけ」との議論がまき起こる。しかし、日本の「民衆憲法」をきっちり参考にした事実を忘れてはならない。仮に「押しつけ」だとしてもいいものはいい。自前のものでも悪いものは悪い。それが、敗戦から得た教訓ではなかったか。
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よく知られている事実だが、原文は英文だった。だからこれは翻訳である。憲法改正論者は、この事実をもって「これは日本人の憲法ではない。押しつけ憲法だ」と主張し、同時に日本語として悪文の最たるものと批判する。だが、なにより重要なのはそこにどのような「精神」が、どのような「意思」が、どのような「願い」が表現されているかという点なのではないか。
日本は朝鮮半島や中国や東南アジアの人びとに惨禍をあたえ、自分自身も深く傷ついて敗戦を迎えた。「平和主義」は、他でもない日本人自身の強い願いだった。「戦争はもう二度とごめんだ。軍人がいばる時代は二度とごめんだ。世界の鼻つまみ者になるのはもう絶対いやだ」当時の新聞や雑誌や単行本や多様な資料に読みふけっていると、そんな声が聞こえてくる。
「性差別」もそうだ。「女性は男性と同一の権利を有する。性別による差別は絶対に容認できない」などという考え方が目の前に現れるなど、当時の女性にとってはまるで夢のような話だった。男性によって女性が虐げられる例は無数にあり、男性にとっては、ごく当たり前のふるまいだった。これは、長い間、苦難に耐えるしかなかった女性のつらい経験の集積の上に咲いた花だったにちがいない。
さて、ここで歴史学者色川大吉さんの私的を紹介しておきたい。GHQ民政局で憲法起草にかかわった中心人物、マイロ・ラウエル中佐が次のように証言しているというのだ(詳細は『日本国憲法法制定の由来――憲法調査会小委員会報告書』参照)。
「四五年十二月ごろ、日本緒私的グループが作った憲法改正案がGHQから提出された。これを私が英訳してコメントを書いた。GHQ民政局はこの案からヒントを受けた」
色川さんが調査したところによると、GHQに提出された私的グループの草案とは、憲法学者鈴木安蔵らが明治の自由民権論者植木枝盛の草案から学んで起草した。そこには、①日本国の統治は日本国民より発す、②天王は国民の委任によりもっぱら国家的儀礼を司る、③国民は法律の前に平等にして出生叉は身分に基づく一切の差別はこれを廃止す、④国民は健康にして文化水準の生活を営む権利を有す、などと明記されていた。この他にも12を越えるグループが草案を提出しており、ラウエルたちは、これを高く評価し、GHQ案に生かしたという。たしかに内容も書き方もそっくりに思える。
日本国民の歴史的遺産が、まちがいなく現憲法に生かされていたのである。