じじぃの「人の死にざま_1675_エドガー・エイドリアン(電気生理学者)」

カエルの実験

第32回ノーベル生理学・医学賞 シェリントン・エイドリアン「All or none low」 サイエンスジャーナル
1932年のノーベル生理学・医学賞は、イギリスの生理学者チャールズ・シェリントン(1857年〜1952年)と、イギリスの電気生理学者エドガー・エイドリアン(1889年〜1977年)である。2人は「神経細胞の機能に関する発見」により、ノーベル生理学・医学賞を受賞した。
エドガー・エイドリアン(Edgar Douglas Adrian)はイギリス人の電気生理学者で、神経細胞の機能に関する発見により、チャールズ・シェリントンとともにノーベル生理学・医学賞を受賞した。
エイドリアンは、イギリス政府の法律顧問だったアルフレッド・エイドリアンの息子としてロンドンで生まれ、ウェストミンスター・スクールケンブリッジ大学トリニティ・カレッジで自然科学を学んだ。その後、人生の大半をケンブリッジで過ごした。
http://sciencejournal.livedoor.biz/archives/3778846.html
『脳と心の謎に挑む―神の領域にふみこんだ人たち』 高田明和/著 講談社 2002年発行
神経と神経をつなぐもの (一部抜粋しています)
最近では多くの「脳内物質」が見つかり、一般の方々も名前を口にします。
もっとも知られている脳内物質は「エンドルフィン」ではないでしょうか。脳内麻薬として一躍有名になったこの物質も神経伝達物質の1つです。
さらに最近では「ドーパミン」とか「セロトニン」などという物質の名前が盛んに口にされるようになりました。
こうした神経伝達物質はどのようにして発見され、どのような役割をしているのでしょうか。今まで述べたように神経細胞は、軸索、樹状突起、細胞体からなるニューロンを単位として、お互いに独立した細胞として機能を果たしています。そして、神経の軸索と次の神経細胞の細胞体や突起の間には仮想的な空間、シナプス間隙があるということもわかってきました。
同時に神経が電気的に情報を伝えるということもわかり、その電気活動が記録されるようにもなりました。
1920年代は日本の神経生理学が勃興した時期でもあるのです。特に北里柴三郎(1853〜1931)が慶應義塾大学に医学部を作った時に、若い俊英が教授に迎えられました。
その中で弱冠28歳で生理学の初代教授になった加藤元一は神経の伝達に興味をもちました。
当時英国ではケンブリッジ大学のチャールズ・シェリントンの元に優秀な赤物が集まり、神経がいかに電気的に伝達するかを研究していました。
たとえば筋肉を動かす時に、力を入れれば思いものが動かすことが出来、あまり力を入れなければ軽いものを動かすことが出来ます。
筋肉は多くの筋肉細胞(筋線維)から出来ていることは知られていました。
すると力を必要とする時には筋線維一本一本が強く収縮したり、弱く収縮したりするのでしょうか。それとも弱い時には少ない筋線維しか収縮しないので力が弱く、強い時には多くの筋線維が収縮するから強い力が出るのでしょうか。言葉を換えれば各々の筋線維は常に最大の収縮をしていて、力は収縮に関与する筋線維の数によって変わるのでしょうか。
この問題を調べたのは英国のケイス・リューカスでした。
彼は数の少ないカエルの筋肉を取り出し、これをさらに数本の筋線維を含むヒモに分けました。そしてこのヒモに次第に強い電流を加えると、ヒモは段階的に刺激の強さに応じて収縮したのです。つまり刺激にたいして各々の筋線維は最大まで収縮し、刺激が強くなるとこの収縮に関与する筋線維お数が増したのです。
これを「all or none(悉無律 しつむりつ)」の法則といいます。つまり筋肉細胞は繁みされれば常に最大の反応をし、刺激されなければ全く反応をしない、中間の反応はないということです。
リューカスはさらに神経について悉無律が成り立つと考えました。しかし彼は愛国者であり、第二次大戦が始まると従軍し、自分で作った飛行機に乗って参戦し、戦死しました。
その弟子のエドガー・エイドリアン(1889〜1977年)は師の仕事を進め、神経の悉無律を研究しました。
彼は神経の一部を箱に入れ、ここにアルコールのガスを充満させました。アルコールは神経の伝達を弱くします。そのために伝達速度はゆっくりになります。もし悉無律が成り立つなら、アルコールの箱を過ぎれば神経の伝達はすぐにまた最大になる筈だと考えました。実際結果はその通りでした。
これ以外の方法でも彼は神経の悉無律を確認したのですが、その確認のためには筋肉も神経もたった一本にして、悉無律を研究する必要があります。
この困難な仕事をやりとげたのが加藤らのグループなのです。
その結果神経や筋肉がどのように刺激を伝えるかなどについての多くの発見が可能になりました。微細な技術を要求される単一神経の摘出は加藤のグループの独断場でした。