じじぃの「人の死にざま_1640_オーギュスタン・フレネル(物理学者・レンズ)」

コルドゥアン灯台のレンズ

オーギュスタン・フレネル

オーギュスタン・ジャン・フレネル ウィキペディアWikipedia) より
オーギュスタン・ジャン・フレネル(Augustin Jean Fresnel、1788年5月10日 - 1827年7月14日)は、フランスの物理学者、土木技術者。トマス・ヤングとは独立に光の波動説を唱え、光の回折や複屈折現象など、光学に関する理論的研究を行った。また、フレネルレンズを発明するなど、実用的な研究にも業績を残した。
フレネルは実用的な研究にも業績をのこした。灯台を開発する際、それまでは1枚の巨大なレンズが作られていたが、薄い複数枚のレンズを組み合わせて同様の性能のレンズを開発した。このレンズは現在でもフレネルレンズと呼ばれている。
フレネルは病弱であり、絶えず病気に悩まされ続けた。1827年結核により39歳で死亡。

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灯台の光はなぜ遠くまで届くのか 時代を変えたフレネルレンズの軌跡』 テレサ・レヴィット/著、岡田好惠/訳 ブルーバックス 2015年発行
世界初のフレネルレンズ (一部抜粋しています)
フレネルは病弱で、1822年から1823年にかけてはとくに衰弱が激しくなっていった。だが死の影におびえながらも、二重回析、円偏向、クリスタルガラスを通る光の偏向などの論文を次々に発表する。
フレネルの光に対する見解と、光の物理的伝播に関する理論は実際に、19世紀物理学の多くの分野の基礎をなすものとなった。彼の二重回析説については、イギリスで波動説を推進していたトマス・ヤングが、デヴィット・ブルースターの光の粒子屈折に関する記事に対抗するものとして、『ブリタニカ百科事典』に寄稿してほしいと求めてきた。だがフレネルは健康上の理由で辞退し、寄稿はアラゴに譲ると返答した。
春になると、フレネルの健康は回復し、コルドゥアン灯台に出向いて、レンズの設置をすることになった。コルドゥアン灯台は、地元の人びとを雇って組み立て作業を開始したが、作業員たちは当然のことながら、精密光学の知識が十分にない。フレネルは、「作業員のほとんどが、役に立ちません」とヤングに書き送っている。「私はごく細かいところまで立ち入って教えなければならず、自分で作業をしてしまう場合もしばしばあるのです」と。
タブレがパリからやってきて、光学に関する部分を手伝った。一方で回転部を納入したベルナール=アンリ・ワグネルが、当時時計に使われていた、エスケープメント(脱進装置)という機構の取り付けを補佐させるため、ハンスという助手を差し向けてきた。
フレネル一行は、その年の7月いっぱい、灯台のある小さな岩の上で過ごしたが、フレネルの手紙には、いいことはほとんど書かれていない。だがともかく、7月の末には灯光を発信した。
1823年7月25日、世界初のフレネルレンズがコルドゥアン灯台で試運転の運びとなる。フレネルは近隣の港を回って、光の届き具合を確かめた。フランス本土でコルドゥアン灯台の真北に位置するロワイヤンの港には、船員たちがつめかけていた。南のヴェルドンは士官たちでいっぱいだった。どちらの港でも、誰もがフレネルレンズから発せられる光の輝かしさと白さに驚愕していた。イギリス人の海水浴客たちは、それまでイギリスで見たどんな灯台の光より明るいと断言した。フレネルはその評判が誇張ではないかと懸念し、オランダ南部の都市ハーグに住む友人に手紙を書き、オランダの船員たちの意見を調べてほしいと頼んだ。
フレネルが北部灯台委員会のロバート・スティーヴンソン委員長に宛てた手紙には、「私が最近公開した実験の方式に従えば、まさしく、そのような結果になるというだけです。もし、全方向における光の密度を”計測”できれば、さまざまな照明装置の長所を正確に比較できるでしょう」と書かれている。
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フランス政府は、コルドゥアン灯台フレネルレンズに約2万8000フラン(現在の貨幣価値で約840万円)を注ぎ込んだ。だが、依然のパラボラ反射鏡とは違い、今回は投資全額が回収できた。船員たちはフレネルレンズの実力に館名した。噂は瞬く間に海を越えて広がった。
フレネルは大喜びだった。科学者としての評判も上昇した。1823年にはフランス科学アカデミーの会員に推挙され、翌年、フランス政府からレジオン・ドヌール勲章を贈られた。ナポレオンが、国家に特別の貢献をした国民に授けるために作った勲章である。フレネルはおごることなく、淡々と研究作業を続け、レンズの配置やランプの改良、回転装置の改善を計画した。その結果、光の回析を利用した屈折レンズ(dioptric lens)も発明した。彼の仕事はまだ始まったばかりだった。