じじぃの「科学・芸術_10_帰納的推論」

太陽は明日も昇る?

演繹法帰納法の違いについて、この2つの違いがいまいちよく分かりません。 2009/3/10 Yahoo!知恵袋
回答
演繹法は理論/論理からの推論です(一般的なことから個々の事柄を探る)。論理学の分野ですね。
帰納法は経験(もっと詳しく言えば確率)からの推論です(個々の事柄から一般的なことを探る)。統計学などの分野ですね。
帰納法は過去の経験からみて、これはこうなる確率がきわめて高い、というだけですから仮定が正しくても帰納法で出された結果は絶対ではありません。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1323983833
『10代からの哲学図鑑』 マーカス ウィークス、スティーブン ロー/著 三省堂 2015年発行
科学による知識を信じていいのか? (一部抜粋しています)
科学理論は、手に入る証拠だけに基づくしかないため、特定の例を観察した結果、一般的な結論を裏づけるのに用いられます。そうした帰納的推論を頼りに、科学者たちは世界についての知識を私たちに伝えようとするのです。たとえば、毎朝太陽が昇るのを見てきたから、明日も、それ以降も必ず太陽が昇るだろうと考えたりするようなものです。けれども、そう考える根拠はあるのでしょうか? ディヴィド・ヒュームは、帰納的推論に頼ることは正当でないと主張しました。明日も太陽が昇ると思うのは、太陽が昇らないと同じくらい根拠のないことだというのです。帰納法のかかえる問題は、宇宙のあらゆるものが不変のパターンに従い、未来も過去に似たものであるはずだという想定に頼っていることだ、と。しかし、その想定自体、帰納的推論に基づいています――私たちの限られた経験によるとそうだからという理由で、自然界は不変だと想定しているのです。同じように、私たちの経験のうちで、ひとつの出来事のあとに必ず別の出来事が生じるからというだけでは、第一の出来事が第二の出来事の原因であるとは言えません。科学は推論でなく習慣を扱っているだけだ、とヒュームは言います。太陽が明日「昇らない」というのと「昇る」というのが同じ可能性をもっているというと、ばかばかしく思えるかもしれませんが、ヒュームの主張に欠点を見つけるのは至難のわざでした。
しかし、20世紀半ば、カール・ポパーが、別のアプローチを提案しました。いくつかの観察例だけでは一般原理を確証はできない、ということに同意したうえで、逆にたったひとつの否定的な例があれば、その理論の誤りを立証することができると推論したのです。たとえば、ネコに尻尾があるという目撃例がどんなに数多くあろうと、「すべてのネコには尻尾がある」と確信することはできません。ところが、尻尾のないネコの目撃例がたったひとつあれば、その説が偽であることが明らかになるのです。ポパーによれば、「反証可能な」(観察や実験によって偽であると示すことができる)ものだけが、科学的理論です。
現実には、帰納的論証を信頼することによって、科学者たちは人類を月に着陸させました。そうした輝かしい業績が、帰納的論証を信頼していいという正当化につながっているのでしょうか? 残念ながら、この論証自体、帰納的論証です。帰納法はこれまでのところ機能してきた、だから明日からもたぶん機能するだろう、ということを言っているのですから。