じじぃの「人の生きざま_548_なかにし・礼(作詞家)」

ゴロウ・デラックス なかにし礼 10月15日 バラエティ動画 fc2
http://video.fc2.com/content/20151016Ct7Bnh9T/&otag=1&tk=TXpBek5EZzBORFE9
12人の女優が「なかにし礼の名曲」を歌う 動画 Dailymotion
http://www.dailymotion.com/video/x2ibhge
なかにし礼

なかにし礼氏がん再発 背中25センチ切る大手術 2015年3月7日 日刊スポーツ
事務所関係者などによると、2012年2月に見つかった食道がんは、放射線治療の一種、陽子線治療を4ヵ月で30回受けたところ、がんが消え、同年10月に仕事復帰した。その後も3ヵ月に1度の定期検査を欠かさず、今年1月には作詞家・作家生活50周年記念のアルバム「なかにし礼と12人の女優たち」を発売。精力的に活動を続けてきた。
http://www.nikkansports.com/entertainment/news/1443254.html
なかにし礼 ウィキペディアWikipedia)より
なかにし 礼(なかにし れい、1938年9月2日 - )は、日本の小説家、作詞家。本名は中西 禮三(なかにし れいぞう)。
【来歴】
満州国牡丹江省牡丹江市(現在の中華人民共和国黒竜江省)に生まれる。元は北海道小樽市に在住していた両親は、渡満して酒造業で成功を収めていた。終戦後、満州からの引き揚げでは家族とともに何度も命の危険に遭遇、この体験は以後の活動に大きな影響を与えた。8歳の時に小樽に戻るが、兄の事業の失敗などで小学校は東京と青森で育ち、中学から東京品川区大井町に落ち着く。
テレビ朝日系列で放送されているワイドショー『ワイド!スクランブル』のコメンテーターを務めていたが、2012年3月5日の放送で、食道癌であることを報告。治療のため休業することを明らかにした。
医師たちから抗がん剤放射線治療、手術という治療法の説明を受けるが、自身の心臓は長い手術や放射線治療には耐えられないと考え、インターネットを活用して陽子線療法の存在を見つける。2012年2月から6月にかけての闘病の様子は著書『生きる力 心でがんに克つ』に詳しい。闘病の結果がんを克服、同年10月に復帰。執筆、コメンテーター等の仕事も再開した。
【AMBITIOUS JAPAN!】
AMBITIOUS JAPAN!(アンビシャス ジャパン!)はTOKIOの28作目のシングル。2003年10月1日にユニバーサルJから発売された。
オリコンチャートで初登場首位を獲得。同チャートでの首位獲得は通算3作目、前作「ding-dong/glider」に続き、2作連続での首位獲得である。

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ゴロウ・デラックス 「2度のがんを克服したなかにし礼 2015年10月15日 TBS
【司会】稲垣吾郎外山惠理 【ゲスト】なかにし礼
●課題図書 生きるということ(毎日新聞出版
手がけた作詞は4000曲!! 大ヒットメーカー・なかにし礼登場!!
「まつり」「恋のハレルヤ」など名曲のウラ話続々公開!!
そして2度のがん克服で語る大事なこと。
http://www.tbs.co.jp/goro-dx/backnumber/2015.html
10月15日 TBS ゴロウ・デラックス 「2度のがんを克服したなかにし礼 より
がん克服・・・なかにし礼 生への願いを込め執筆。
4000曲を手がけた名作詞家が語るヒット曲の条件
なかにし、「自分の書いた歌で不快な歌はないんですよ」
稲垣、「不快な歌と心地よい歌とあるんですか?」
なかにし、「ありますよ。言葉の並びや、ものの考え方とか。ダメだな、こりゃとか。一方でいいねえ・・・と思うのもある」
稲垣、「時代の声とかムードに耳を傾けて」
なかにし、「作品を書く時にそんなことは邪念になってしまうというか。毎日まじめに生きているわけだから。時代の空気はひしひし感じている。机に向かって今ならどんな歌を書きたいか。例えば”AMBITIOUS JAPAN!”。あの当時書いたわけです。いうなれば”頑張れ ニッポン!”を英語で書いた。他にもTOKIOのためとか世の中の想いをすくい上げるとか考えていなくて、そんな時に自分が何を書きたいか。実に売れた」
「日本人の心をつかむ歌」を書き続けてきたなかにし礼さん。
実は満州で生まれ育ったため、日本の歌謡曲にはなじみが薄かったのだとか。
なかにし、「僕は満州に生まれてそこが自分の故郷だと思っていた。だから、日本の歌謡曲とか唱歌は聴いても分からなかった」
シャンソン喫茶のボーイとして生計をたててきたなかにし礼さんは石原裕次郎に「シャンソンの訳なんてやっていないで、日本語の歌詞を書きなさいよ」と勧められ、作詞家の道へ。
約1年後に作詞作曲した作品(後の「涙と雨にぬれて」)を自ら石原プロに持ち込んだ。それから数ヵ月後、石原プロがプロデュースした「涙と雨にぬれて」がヒットする。
1969年には、作品の総売上が1,000万枚を超える。
なかにし礼と12人の女優たち」に収録の「世界の子供たち」を歌う黒柳徹子のレコーディング映像。
2015年6月、単行本「生きるということ」刊行。がんの再発と向き合いながら平和の尊さについて多く触れている。