じじぃの「人の死にざま_1573_ヨハネス・グーテンベルク(活版印刷術)」

Johannes Gutenberg Biography 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=V-Ma40uyo-I
「グーテンベルグ聖書」

グーテンベルク42行聖書 マインツ 1455年頃 紙 慶應義塾図書館
グーテンベルク聖書は15世紀にドイツ・マインツの金細工職人ヨハン・グーテンベルク(Johann Gutenberg)が印刷した西洋初の活版印刷の聖書です。活版印刷と火薬と羅針盤は、世界の秩序を変えたルネサンス期の三大発明といわれ、グーテンベルクの発明した印刷技術はその後、急速に全ヨーロッパに広まり、宗教改革や科学革命を促す原動力になりました。
http://www.mita.lib.keio.ac.jp/collection/rare000.html
『誰も書かなかった 世界史「その後」の謎』 雑学総研 中経の文庫 2014年発行
初の印刷本を発行したグーテンベルグの悲しいその後 (一部抜粋しています)
活版印刷術を発明し、15世紀半ばの西欧文化に革命をもたらしたヨハネス・グーテンベルグ(本名はヨハン・ゲンスフライシュ)。金属活字は14世紀の朝鮮ですでに用いられていたが、彼の発明が画期的だったのは、規格が決められた容易に交換可能な金属活字をつくったこと、印刷用のインクをつくったこと、油絞り機などにヒントをえてプレスを用いたことにある。
グーテンベルグがこの印刷術を発明するまで、書物は1冊ずつ人の手によって書き写されていたが、それ以降、短時間に多くの部数を刷ることが可能となったのである。彼の発明が「革命をもたらした」と讃えられる所以はここにある。なお、新聞記者や出版社のことを「プレス」と呼ぶのも、先述のように、活版印刷において印刷機(=プレス)を用いていたことに由来している。
父親の跡を継いで金属細工業を生業(なりわい)としていたグーテンベルグは、金属加工の技術を文書の複製に転用することを思いつく。そして、1450年頃、グーテンベルグの印刷所からはじめての印刷本が発行され、5年後にはラテン語版『42行』聖書を世に送り出す。これが後世に名高い『グーテンベルグ聖書』と呼ばれるもので、彼の名は一躍広まることとなった。
さて、活版印刷術を編み出したグーテンベルグは、成功ののちどうなったのだろうか?
実は、彼は実業家のヨハン・フストという人物から金を借り入れて印刷所を成り立たせていたのだが、『42行』聖書を刊行したあと債務不履行に陥ってしまったため、フストは訴訟を起こし、抵当となっていた印刷所および印刷機、そして金属活字まで取り上げられてしまうのである。つまり、グーテンベルグは印刷所を追い出されたのだ。
その後、グーテンベルグは自身で新たな印刷工房を開き、行政関連の仕事をえて、1468年にマインツ(ドイツ)にて亡くなったとされる。なおグーテンベルグの生涯については中世の人物であるにもかかわらず謎が多く、マインツで生まれたことはわかっているが、生年とされるのは1397年から1400年までと数年の幅がある。
だが、最晩年、彼はその業績からマインツ大司教より貴族に授爵(じゅしゃく)されているから、まったく不遇だったというわけではないようだ。
グーテンベルグから一切を取り上げたヨハン・フストは。先述のように述べると何だか悪い人物のように思えてしまうが、彼がグーテンベルグに貸し付けていた800グルテンという金額は、当時の価値で1軒の家が建つほどであったというから、印刷所や機材を取り上げたのも仕方のないことのように思える。また印刷術を改良し、発展させたのはフストと彼の娘婿ペーター・シェーファーで、シェーファーはその後『マインツ詩編』『ミサ典書』『典礼大全』などを刊行、さらに、世界初となる書誌目録や販売広告物などを製作している。