じじぃの「神話伝説_130_献身・進化の意義」

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看護婦さん

こころの時代 〜宗教・人生〜 「神は弱さの中にあり」 2015年10月31日 NHK Eテレ
【出演】木原活信(同志社大学教授)
「世の中は、通常、強いこと、物事を行う能力の高いことが評価される。しかし、人間は、もともと弱い存在であり、弱さを認め合うことで、生きやすい世の中に、多少なりともできるのではないか」と語る。
同志社大学教授・木原活信(きはら・かつのぶ)さん。長年、社会福祉に携わってきた。根底にあるのは、キリスト教の信仰。「自らの弱さを認める」とはどういうことか。
イエス・キリストの根本思想には、コンパッション(compassion、共感・共苦)がある」と語る。

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ありえへん∞世界 「世界と日本の知られざる絆スペシャル」 2015年8月11日 テレビ東京
【レギュラー出演】安田章大関ジャニ∞)、村上信五関ジャニ∞)、丸山隆平関ジャニ∞)、ベッキー美輪明宏宮崎哲弥 【ゲスト】黒谷友香泉谷しげる
▽自らの命と引き換えに 多くの人を救い、慕われる伝説の 日本人医師 肥沼信次
異郷の地で壮絶な死を迎えた肥沼信次。
彼が、もし日本に帰国していたならば放射線医療の分野で大きな実績を残していたでしょう。
また、ソ連軍司令官の求めに応じなかったらあるいは適当に仕事をし後にベルリンに戻って研究をしていたとしても、また大きな業績をあげていたでしょう。
しかし、彼は医師として、一人の人間として、目の前で苦しんでいる人達を見過ごすことはできなかったのです。
http://www.tv-tokyo.co.jp/ariehen/
『宇宙をつくりだすのは人間の心だ』 フランチェスコ・アルベローニ/著、大久保昭男/訳 草思社 1999年発行
献身することの意味 (一部抜粋しています)
私の前に一通の手紙がある。
「私は離婚した女性です。良い仕事はもっていますが、すばらしい愛もなく、子供もなく、面倒をみなければならない両親もおりません。でも私の人生は不幸ということはありません。それどころか、貯蓄の利子や特別手当がたっぷりあるのです。
 けれども、ときどき自分がエゴイストと強欲の化身ではないかと思うことがあるのです。そんなとき私は、こんな思いは、女性は犠牲になるものだという馬鹿げたしつけの結果にすぎないと自分に答えるのです。私たち女性は、幼児の頃から他人に尽くすように教育されてきましたし、何世紀も昔から、誰かに献身するものだという考え方を仕組まれてきたのです。
 ところが、私には夫も子供もいないし、苦労して世話を焼かなければならないような人も、心を砕かなければならないような人も誰一人もいないのです。けれども、あの古めかしいしきたりが依然として作用して私に罪の言葉を抱かせるのです。社会で身を立て、ただ自分自身のことだけを考えるようにしつけられてきた男性は、おそらくこんなことは少しも感じないでしょう。幸福であり満足していれば、それ以上言うことはないのでしょう」
自分を正当化しようとすることはエゴイズムである。もっぱら自分自身にだけかかわる利害や関心を道徳的に正当化しようと試みる際に、男性も女性も誰もが行なう振る舞いである。しかしながら、それは失敗する試みである。この女性が感じると語っているそのような罪悪感や空しさは、彼女の弁明も正しくないという証である。
真実は別のところにあり、それは単純かつ明瞭なものである。すなわち、男性も女性も私たち人間は、誰もが他の人に、あるいは他のなんらかのものに自ら尽くしたいという、やみがたい欲求を抱いているということである。私たちは、自分自身を愛や関心や配慮、留意の隊商とすることはできないということである。
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人間は、利害と交換に関する貧しくも不毛な心理学にどのように描かれたかによって、劣等であると同時に優等であったりする。そして、悪党であったり嫉妬深い人であったり、他人の苦しみを喜んだり、あるいは残酷であり、復讐心の強い人物であったりするのである。しかし、同時に彼らは寛大である能力も備えている。そして、もっともすばらしいのは、契約や業務や快楽にもとづいてそれをするのではなく、心の躍動、愛、献身などの情念からそれを行うことである。
なぜだろう。私が思うには、すべての人間に共通しているこのような性向、気質は、私たちの生物学的・社会的な本性に客観的な基礎をもっているからなのである。私たちは孤立した個体ではなく、終わりのない生命の鎖のなかに、歴史的進化発展のプロセスのなかに組みこまれているのである。私たちは、自分たちに先行した諸世代の労苦の所産であり、あとに来る子孫とも同じことをするようにプログラミングされているのである。つまり、私たちの存在のすべて、言語や私たちの認識、労働や食物などを前世代から受けとって、次の世代に授けるように私たちはプログラミングされているのである。
アダム・ファーガソン(1723〜1816。イギリスの哲学者、歴史学者)が次のように述べている。「このような深い動機づけに動かされて、人間は、幸福というものが自分たちの共同体のために企画し建設することにあることを発見する。事実、人間は、自らの共同体の不可分な一部として自分自身を考えるとき、その心は燃え上がり、熱意にあふれ、つらい苦しみや恐れ、嫉妬、ねたみなどから成り立っている個人的な情念を忘れ去るのである。そして、他人の善を望むとき、他人の幸福が自らの幸福にとってもっとも豊かな源泉であることに気がつくのである。そして、彼の生活は、エゴイズム、卑劣さ、貪欲さから解き放たれて、自らの存在が、恐れ知らずで大胆になり、いかなる偉業をも成しうるようになるのである」
どんな種、どんな世代でも、それ自身で尽き果てるのではなく、自己を超越するとき、自己の外にあるより良いなにかを準備したときに尽き果てるのである。生物学上のすべての種も、人間のすべての世代も、すべての個人も、創造の任務にこのように協働するのである。これが進化の”意義”なのである。私たちは献身的行為の産物であり、また献身の責務を負っているのである。このような理由から、もっぱら私たち自身に向けられた、まったく功利的で、まったく利己的な行為は空虚であり、空しさを生みだすのである。つまり”献身して”いない生命は意義が欠如しているのである。