じじぃの「人の死にざま_1559_勾践(中国春秋時代の王)」

臥薪嘗胆予告 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=zsdc9ZqlZ4Q

「以徳報怨」って言われても、よく分かりません。 2012/9/29  Yahoo!知恵袋
回答
「以徳報怨」は老子の言葉です。老子がこの言葉を言ったのは、「以怨報怨」つまり「怨みに報いるに、恨みを以ってす」だと、恨みの連鎖が起きて何時までたっても怨みは解けず、復讐が復讐をよび報復合戦になってしまう。そうならないためには「怨みに報いるに、徳を以ってすべきである」という意味であると解釈されています。
旧約聖書コーランを基とする「目には目を、歯には歯を」の反対の考えです。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1394880143
勾践 ウィキペディアWikipedia)より
勾践(こうせん、? - 紀元前465年)は、中国春秋時代後期の越の王。范蠡の補佐を得て当時華南で強勢を誇っていた呉を滅ぼした。春秋五覇の一人に数えられることもある。句践とも表記される。越王允常の子で、楚の恵王の外祖父にあたる。
臥薪嘗胆 ウィキペディアWikipedia)より
臥薪嘗胆(がしんしょうたん)とは、復讐のために耐え忍ぶこと、また、成功するために苦労に耐えるという意味を持つ、中国の故事成語である。紀元前6-5世紀の呉と越の国家間の戦争に由来する。
この成語の現在確認できる初出は、「嘗胆」のみならば『史記』巻41越王句践世家であるが、「臥薪嘗胆」と揃った形では蘇軾(1037年 - 1101年)の詩『擬孫権曹操書』中の句「僕受遺以來」以降である。
日本においては、『十八史略』(14世紀前半に成立)により知られるようになり、明治時代の日本において、三国干渉が発生した時に、ロシア帝国に復讐するために耐えようという機運を表すスローガンとして広く使われた。

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『中国 かなりこわい闇の歴史---学校じゃここまで教えない!』 歴史の謎を探る会 KAWADE夢文庫 2011年発行
臥薪嘗胆――復讐が復讐をよんだ凄惨な戦い (一部抜粋しています)
春秋時代の末期、戦乱に明け暮れた古代中国でも、屈指の激戦が繰り広げられた。呉越の抗争である。呉も越も中国南部の国家であり、互いに憎み合い、凄惨な戦いを繰り返した。古代中国人の復讐心、闘争心を知るうえで、呉越の抗争は大きな参考になる。
呉越の戦いは、呉王・闔閭(こうりょ)の野望にはじまる。闔閭は伍子胥を軍師に抜擢し、呉の大国化を目指すが、紀元前496年、越王・勾践の軍勢に不覚を喫し、その傷がもとで息をひきとる。
闔閭の子である夫差が呉王となり、父・闔閭の復讐を誓う。そのためには、つねに薪の上に臥すという苦痛を自らに与え、復讐の念が衰えないようにした。その復讐の機会はやがて訪れ、紀元前494年、越王・勾践の軍勢を破り、勾践を会稽山に追い込む。夫差は、復讐の目的をほぼ達したといっていい。
窮地に陥った勾践は、策士・范蠡の言葉に従い、屈辱的な和を夫差に乞う。伍子胥はそれに反対したが、おごった夫差は勾践を許し。家臣とした。
勾践はひそかに復讐を誓い、つねに傍(かたわ)らに肝を置いた。その肝を嘗(な)め、苦さを味わうことで、復讐心を燃やしつづけたのである。やがて越は、復讐への障害となる呉の知者・伍子胥を陥れる。彼は、夫差から自死を命じられ、夫差に恨みの言葉を投げつけながら、自殺した。
伍子胥なき呉に対して、勾践は攻撃し、呉軍を破り、夫差を姑蘇城に追い詰めた。勾践は夫差の命だけは助けようとするが、夫差は伍子胥に合わせる顔がないと、自死する。紀元前473年のことだ。これが「臥薪嘗胆」の故事である。「薪の上に臥し、肝(胆)を嘗める」という苦痛によって維持しつづけたその執念が、復讐をよぶ抗争をもたらしたのだ。