じじぃの「人の死にざま_1558_肥沼・信次(医師)」

【KSM】ドイツ人が神と慕う日本人医師 肥沼信次 リーツェンの桜 1908年10月9日 - 1946年3月8日 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=CFirZ8NYlZQ&spfreload=10

リーツェンの墓地にある
肥沼信次医師の墓

肥沼信次 ウィキペディアWikipedia)より
肥沼 信次(こえぬま のぶつぐ、1908年10月9日 - 1946年3月8日)は、日本の医学者。第二次世界大戦後のドイツで医療活動に尽力した。

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ありえへん∞世界 「世界と日本の知られざる絆スペシャル」 2015年8月11日 テレビ東京
【レギュラー出演】安田章大関ジャニ∞)、村上信五関ジャニ∞)、丸山隆平関ジャニ∞)、ベッキー美輪明宏宮崎哲弥 【ゲスト】黒谷友香泉谷しげる
▽自らの命と引き換えに 多くの人を救い、慕われる伝説の 日本人医師 肥沼信次
中世から栄える歴史的な街・リーツェンの中心部にあるフリート墓地には日本人医師・肥沼信次の墓があり死後69年経つ今もお参りをする人が絶えない。
市役所には肥沼ルームという資料室があり、そこには実際に使っていた医療器具が展示されている。さらに学校の道徳の授業で使われる教科書にも肥沼の事が大きく取り上げられており、街の一番大きな公園も「DR.コエヌマビーチパーク」と名付けられている。東日本大震災が起きた時もいち早く義援金が寄付された。
終戦間近、ベルリンが攻撃を受け始めると肥沼は北部の都市・エーデスバルデへ疎開し診療所を設立した。1945年5月9日、ドイツが降伏。終戦から数日が経ったある日、ソ連軍地区司令部のシュバリング司令官が訪ねてきてリーツェンの伝染病センターの責任者に任命された。当時、発疹チフスが流行しペスト・マラリアと共に歴史上多くの命を奪ってきた。当時のリーツェンは難民や捕虜の収容所が周りに多く衛生状態が悪くチフスが大流行していた。ドイツ人の医者は兵隊にとられ医者が不足している状況だった。伝染病は専門外だがアインシュタインの言葉を思い出しtリフスに苦しむ人々を救うため申し出を受ける事を決意した。
1946年3月6日、肥沼はチフスに感染してしまった。休む事なく体を酷使した肥沼に病魔を乗り越える体力はほとんど残っていなかった。他の患者に残すため薬を拒み、1946年3月8日、肥沼信次は37歳で逝去した。
当時、肥沼に命を救われたカールさんは「肥沼先生に救ってもらった命を大切に生きる。この69年間一時もその思いを忘れた事はありません」と話した。東西冷戦のため西側の情報を厳しく規制してしまったため肥沼信次の情報を調べたり発信したりできなかったがリーツェンの人々の心の中に生き続け、街の人々の後押しでベルリンの壁崩壊後、ジーベルト元市長やシュモーク博士が動き1ヵ月後、朝日新聞の記事に肥沼の遺族を探す記事が掲載。弟の故・肥沼栄治氏が見た事で日本とドイツそれぞれで肥沼の情報が明らかになった。
http://www.tv-tokyo.co.jp/ariehen/
『 大戦秘史・リーツェンの桜―敗戦の地ドイツでチフスと闘い、散った日本人医博・肥沼信次』 舘沢貢次/著 ぱる出版 1995年発行
日独文化協会と肥沼 より
肥沼がドイツから帰国しなかった理由の1つが垣間みられる内容だ。この諸方策を記したのはサムス大佐の指揮下ににあったジョンソン大佐かモルトン中佐のいずれかとみられている。
肥沼がベルリン大学放射線研究所での研究論文を東京帝大医学部に提出し、東京帝大医学博士を取得しようとした時に、理学部の範囲だとつきはなし、また理学部は「当学部に鴻沼氏はいなかった」とつきはなすという官僚的対応をとったのはまさに、彼が私学出身であることに対する官学閥の発想であり、障壁主義のあらわれである。
肥沼はしかし、東洋人ではじめてベルリン大学医学部の教授資格を取得した学者である。
ドイツ医学を鑑としてきた日本の医学は、明治政府以来、幾多の人材をドイツに送り込んだが、そうした資格を取得したのは日本医科大学出身で、東京帝大医学部副手という同大の職員録にも載っていない研究員なのである。
東京帝大医学部、そして理学部に肥沼の実力を認めたくない雰囲気があったとみるのは飛躍した見方であろうか。「正統主義が支配をほしいままに、伝統に奴隷的に執着する古ぼけたドイツ式の体系」と喝破したGHQ幹部が、この見方を裏付けていると思える。
肥沼は、日本にいた時、日本医大時代、東京帝大医学部時代、日本の政治をどうみていたのであろうか。数学の原書を読み放射線医学関係の本だけをむさぼり読んでいたのであろうか。
違うと思う。
ベルリンでの人間の良心、日本人学者の歴史、業績等々についての博学からみると、相当な幅広い学問を身につけていたと思える。それだからこそ、ナチス政権下においても、堂々と持説を披露できたのであろう。
とても付け焼刃でできることではない。根底に彼は強靭な人間愛をもっていた。その基礎は日本にいた時に培われ養われたとみるのが自然である。
戦火を越えて より
自然科学への学術的興味を超越してなお真の医者であり博愛者であったというホール博士の式辞は、肥沼の全人格をあらわした内容といえる。
ホール博士は式辞をこう結んだ。
「この地方をよく旅し、この土地を愛したテオドール・フォンターネは、1860年頃この付近の森のそばにある墓地を訪ねた際、シューヴァーベン地方出身の詩人ヴィルヘルム・ヴァイプリンガー(1804 - 1830)の詩の1つを思い浮かべました。
ヴァイプリンガーもまた故郷を遠く離れ若くしてこの世を去ったのです。フォンターネの思い浮かべたこの詩をもって、私の終わりの言葉に替えさせていただきたいと思います」
ホール博士は、ヴァイプリンガーの詩を詠んだ。
 この世に幸の多々あれば
 憩いにまさる幸なけれ
 むなしき苦悩いかなるも
 君には夢と四散せん
 かくして君を誘(いざ)なふは
 野辺に安らぐ永眠(ねむり)なれ
                                (柳田美紀訳)
伝染病医療センターで、満足な医薬品も医療器具もまた食料も不足している中で、伝染病と闘い、多くの患者を治療し救い、自らもその病に罹り客死した肥沼にとって、何よりのやすらぎの詞である。
市庁舎での記念式典は日曜日にもかかわらず、ジーベルト市長はじめ市の関係者、肥沼のもとで看護婦として活躍したヨハンナ・フィードラーさんや家政婦だったイルムガルト・エンゲルさんら肥沼を直接知っている人たち、そして柔道着姿の少年少女、アイヒナー夫妻、肥沼の資料発掘に取り組んできているシュモーク博士、肥沼についての特集記事を連載し肥沼にスポットライトをあて続けてきたメルキッシュオーデル新聞記者のロルフ・リンクリンさんなど、大勢の人々が参加した。市をあげての式典だったのである。
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肥沼が亡くなったあとに生まれた人々が、今日のリーツェン市民の大半になっているとのシュモーク博士の指摘は、リーツェン市民の肥沼への思いの時間の長さを感じないではいられない。
生活と心のゆとりのなかった世代の多くが肥沼に救われ励まされ、その献身的行為を目のあたりにしてきたが、生活に追われて、肥沼を思う心のゆとりはなかった。しかし、次の世代にそれを伝えたからこそ、今日の肥沼への感謝と敬愛の念が形となってあらわれたのだ。
これでいいと思う。肥沼自身、感謝されよう敬愛されようと思って治療にあたったわけではない。そうでなければ、看護婦のヨハンナ・フィードラーが語っているように、地獄図さながらの、部屋中虱だらけで伝染病患者が所狭しと横たえられている緊急難民収容所に、身の危険も顧みず勇敢な兵士のように入り込んで、治療できるわけがない。
肥沼の自らを犠牲にした行為はいたるところでみられた。むろん彼はその行為を犠牲的行為と思うことはなかった。彼にとって医学の道を学んだ者として当然の行為だった。しかし、こうした肥沼の行為を右から左へ、話題として伝えられる時代ではなかった。それ故に、自分自身の心の中におさめたまま時が流れていったと思える。それが当時のリーツェンの人々の日常だった。
それだけに家政婦のイルムガルト・エンゲル夫妻の肥沼への献身的な行為は輝きをもっている。エンゲル夫妻のこうした行為(花をたむけ墓を掃除してきた)が、次の世代に引き継がれている。