じじぃの「人の死にざま_1555_パウル・カンメラー(遺伝学者)」

The Midwife Toad Egg Transfer 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=JGPABDEQGiY
サンバガエル

パウル・カンメラー(Paul Kammerer)(オーストリア 白楽ロックビルのバイオ政治学
パウル・カンメラー(Paul Kammerer)は、世界的に著名なオーストリアの遺伝学者だった。ダーウィンの後、「獲得形質が遺伝する」ラマルク説の支持者だった。
1926年(46歳)、カエル(サンバガエルmidwife toad)の足に墨汁(India ink)を入れてコブ(拇指隆起、nuptial pads)を作るというデータねつ造が発覚した。
ねつ造は実験助手がしたのかもしれないが、6週間後の1926年9月23日、オーストリア山中でピストル自殺した。
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『双子の遺伝子』 ティム・スペクター/著、野中香方子/訳 ダイヤモンド社 2014年発行
遺伝子神話とその崩壊 (一部抜粋しています)
エピジェネティクスの先駆けとなったのは、不運なラマルクだけではない。ウィーンの裕福な家に生まれたパウル・カンメラーは、当初は音楽の道を志していたが、ラマルクのアイデアと両生類に魅せられ、1920年代に生物学者に転身した。当時の学者の常で、彼はさまざまな分野に足を踏み入れた。彼の生命観は、現代のわたしたちから見てもかなり変わっており、フロイトらにしばしば引用されている。確かな証拠はないが、カンメラーはさまざまな実験を行い、驚くべき結果を報告した。たとえば、洞窟に生息する盲目のイモリ(プロテウス)を赤い光の下で育てると眼が形成された。また、サンショウウオを生息地と異なる環境で育てると繁殖パターン(幼生のまま産むか、成体として産むか)が変化した。
最もよく知られるのはサンバガエル(Midwife Toad:オスが後肢に受精卵をつけて孵化まで保護することからMidwife、産婆と名付けられた)の実験で、カンメラーは、水温を上げるという単純な方法によって、本来、陸上で交接するそのカエルを、水中で交接させることに成功した。そして、水中で交接するようになって3世代経つと、先祖返りしたかのように、オスの前脚の指に黒い婚姻瘤(水中でメスにしがみつくための突起)が生じたと彼は報告した。
カンメラーは各国を講演してまわり、大金を稼いだ。1923年の「ニューヨーク・タイムズ」紙は、彼を「新時代のダーウイン」と讃え、「獲得形質の遺伝というラマルクの考えが正しかったことが証明された」と報じた。彼には有名な愛人もいた。グスタフ・マーラーの未亡人、アルマ・マーラーである。アルマは恋多き女性で、著名な音楽家や芸術家を相手に浮名を流した。彼女はカンメラーの助手も務めたが、彼のデータ管理のずさんさや、結果を急ぎすぎる転移、不満を述べている。やがてカンメラーはその科学的偉業に加えて、奔放な生活ぶりや社会主義・平和主義の姿勢も相まって、「トカゲの魔術師」としてウィーン社交界で知られるようになった。しかしその一方で、彼をめぐるメディアのセンセーショナルな報道ぶりは他の科学者たちの不興を買い、また、禁酒法アメリカで、彼が「禁酒は子孫の世代によい影響を及ぼすだろう」と高潔ぶって述べたことは、一部のアメリカ人を怒らせた。
だが、カンメラーの名声は長くは続かなかった。1926年、アメリカ自然史博物館の爬虫類部門主事、G・K・ノーブルが、カンメラーのサンバガエルの実験は捏造だったとする記事を科学雑誌「ネイチャー」に投稿し、掲載されたのだ。まだカンメラーが講演ツアーで世界を駆けまわっていた頃、ノーブルはウィーンのカンメラーの研究所をいきなり訪れ、くだんのカエルの標本を調べた。その記事でノーブルは、カエルの瘤は、カンメラーが言うような複雑な働きによるものではなく、「ただ墨を注入しただけなのです」と述べた。
その6週間後、シュネーベルグの森で、カンメラーはピストルで頭を撃ち抜いた。懐中には謎めいた遺書が残されていた――「わたしをおいて他に誰がそのような偽りを企てたのか、疑いの余地はほとんどないだろう」。奇妙なことに、この遺書も「サイエンス」に掲載された。故人の名誉挽回の方法としては異例なことだった。
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2009年、チリの生物学者アレキサンダー・バルガスは、カンメラーこそがエピジェネティクスとラマルク生物学の始祖だと主張し、論争に再び火をつけた。バルガスは、カンメラーの研究や実験の詳細を調べなおし、これまで嘲笑の的となっていたカンメラーの発見の多くは、現代科学と遺伝子への「刷り込み」によって説明できる、と結論づけた。