じじぃの「人の死にざま_1531_セーレン・キルケゴール(哲学者)」

哲学入門45 キルケゴール あれかこれか 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=93ondy5GxPs
ナポレオン(行きすぎた野心)

絶望だらけのこんな世界でも・・・もしもその唯一の希望が掻き消されてしまったとしたら、一体どうしますか? 2011/10/2  Yahoo!知恵袋
回答
希望の無い所に絶望は無い。絶望とは”死に至る病”である。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1072495110
セーレン・キルケゴール ウィキペディアWikipedia)より
セーレン・オービエ・キルケゴール(Soren Aabye Kierkegaard, 1813年5月5日 - 1855年11月11日)は、デンマークの哲学者、思想家。今日では一般に実存主義創始者、またはその先駆けと評価されている。
キルケゴールは当時とても影響力が強かったゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル及びヘーゲル学派の哲学あるいは青年ヘーゲル派、また(彼から見て)内容を伴わず形式ばかりにこだわる当時のデンマーク教会に対する痛烈な批判者であった。

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『心理学大図鑑』 キャサリンコーリン/編 三省堂 2013年発行
真の自分自身たれ セーレン・キルケゴール (一部抜粋しています)
「私はだれか」という根源的な問いは、古代ギリシャ以来つねに問題にされてきた。「吟味されることのない人生は生きるに値しない」という有名なことばを残したソクラテスの考えでは、哲学の主要目的は自己を分析し理解を深めることをつうじて幸福をより大きくゆくことにある。セーレン・キルケゴールの著作『死にいたる病』(1846年)によれば、自己分析こそが、「絶望」の問題を理解する手段だが、キルケゴールの考えでは、絶望とは自己の抑圧ではなく自己の疎外に起因する。
キルケゴールは、絶望に段階的な区分をもうける。もっとも低次でありふれたものは、無知に起因する絶望だ。ひとはときに「自己」がなんであるかについて誤った考えをもつ。そうなると、自分の潜在的な自己の実存ないしその本性に気づかなくなる。この主の無知は「知らぬが仏」のようなもので、キルケゴール自身それを絶望に数えいれてよいものかどうか悩んだほどとるに足らないものだ。キルケゴールによれば、真の絶望は、自己理解が増すにつれて鮮明になる。この明敏な自己意識からより深い段階の絶望が生じる。
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キルケゴールは皇帝になりたかった男の例をあげて、もしこの男がなんとか目標を達成したとしても、彼がじっさいにおこなうのはそれまでの自己を捨て去ることだと皮肉まじりに指摘する。その野望においても達成においても、彼の望みは自分の自己「からの解放」だ。自己のこの否認は、じつに耐えがたいものだ。絶望は、自己は、自己を遠ざけたいと思うとき、つまり「おのれ自身を掌握していない」ときに、抗しがたいほど圧倒的になる。このときそのひとは、もはや自己自身ではない。
だが、キルケゴールは解決も提示する。私たちはだれか別人になろうとするのではなく、おのれの真の自己たろうとする勇気を見いだすことで、平穏と内的調和を見つけられる。「真の自分自身となろうとすることが、じつは絶望の対極をなす」とキルケゴールは言う。自分は本当はだれなのかを否認するのを止め、真の自己の覆(おお)いをとりさってそれを受けいれられれば、絶望はたちどころに雲散霧消する。
キルケゴールは個人の責任を強調し、真の自己を発見して人生における目標を見いだす必要を重視するが、通常これがこんにちでは実存哲学のはじまりを告げるものとみなされる。キルケゴールの着想はそのままR・D・レインの実存的心理療法へとつうじ、さらにはカール・ロジャーズのような臨床心理学者たちが実践する人間性心理療法に影響を与えた。