じじぃの「神話伝説_97_イザヤ書・みどりご(旧約聖書)」

For unto us a Child is born - G.F. Handel / ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた - G.F. ヘンデル (DTM) 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=I6VHYvOms2A
もろびと、こぞりて モルモンタバナックル合唱団による賛美歌 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=_GjiR_C_ZGY
イザヤ書9章1〜7節 「ひとりのみどりご 大田原キリスト教
きょうは、イザヤ書9章に入ります。このところも何度か取り上げたことがありますが、8章からの流れの中でもう一度読んでみたいと思います。
タイトルは「ひとりのみどりご」です。イザヤは7章のところで、やがて来られるメシヤがどのような方であるのかを「インマヌエル」という言葉で表しました。意味は、神は私たちと共におられる、です。私たちを罪から救い出すことができる神が私たちと共におられるなら、私たちは何を恐れる必要があるでしょうか。どのような問題にも勝利することができます。この方が私たちと共におられるのです。  きょうのところには、やがて来られるメシヤがどのような方であるかを、ひとりのみどりごとして紹介されています。
http://otawara-church.com/?p=355
イザヤ書を読む 旧約聖書5』 本田哲郎/著 筑摩書房 1990年発行
預言者イザヤの召命とその頃になされた預言 (一部抜粋しています)
北王国イスラエルに対する戦線は、おそらく、前733年であったようです。アッシリア軍はレバノンの谷を通って進撃し、北ヨルダンの谷に沿って配備されていたイスラエル側の要塞をつぶしていき、そこから幾つかの鮮烈に散開してパレスチナ全域に進撃したと推測されます。ガラリア、イズレエル、シャロン、ギレアドもすべて征服されました。(列王記15・29)。このとき、かろうじて残されたのはサマリアだけでした。それも、北王国最後の王となるホセアがペカを殺し、多額の貢をアッシリアに納めるという高価な代償を支払っての延命策でした。ティグラト・ピクセルの碑文の1つには、このときに行なわれたと思われる、がラリアのいくつかの町から強制移住させられた住民の人数が読み取れます。
アラム(ダマスコ)に対する侵略は、翌年の前732年に行なわれたようです。メソポタミアのカラで発見されたアッシリアレリーフには、バシャンの首都アシュタロテの住民の捕囚の状況が描かれています。
イスラエル王国のうち征服された部分は3つの属州に分割され、アッシリア人総督が公邸を置く町の名を取って、それぞれドル(ヨッパから北の海岸地方)、メギド(イエスの時代のガラリア地方)、ギレアド(2つの湖に挟まれたヨルダン川東部)と名づけられました。
その後間もなく、前727年、アッシリア帝国の虎ティグラド・ピレセル3世は死に、北の脅威がしばし薄らぎました。ちょうどこの時期になされたイザヤ預言は、彼の預言集の中で最も希望と力に溢れたものの1つに数えられる、よく知られたメシア預言です。
 先に
 ゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが
 後には、海沿いの道、ヨルダン川のかなた
 異邦人のガリラヤは、栄光を受ける。
 闇の中を歩む民は、大いなる光を見
 死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。
 あなたは深い喜びと
  大きな楽しみをお与えになり
 人々は御前に喜び祝った。
 刈り入れの時を祝うように
 戦利品を分け合って楽しむように。
 彼らの負う軛を、肩を打つ杖、虐げる者の鞭を
 あなたはミディアンの日のように
  折ってくださった。
 地を踏み鳴らした兵士の靴
 血にまみれた軍服はことごとく
 火に投げ込まれ、焼き尽くされた。
 ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。
 ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。
 権威が彼の肩にある。
 その名は、「驚くべき指導者、力ある神、
 永遠の父、平和の君」と唱えられる。
 ダビデの王座とその王国に権威は増し
 平和は絶えることがない。
 王国は正義と恵みの業によって
 今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。
 万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。
                   (8・23b - 9・6)
この預言は、北王国イスラエルの北部、後のイエス時代のガリラヤに焦点が当てられています。アッシリアによって侵略され、その属州に組み入れられ、植民政策によって住民の大部分が入れ換えられてしまった地域です。
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イザヤは、いまや、すべてを剥奪されて”小さい者”とされたガリラヤの地において、「光」が輝くのを見ます。「闇の中を歩む」半異邦人となった民と共に「光」を見たのです。人は、暗闇の中を歩んでいるときこそ、わずかな光にも目ざとくなり、輝きのすばらしさに気づくものです。失意と落胆の中にあった民にとって、それは、「深い(ふるえるほどの)喜び」と「大きな(増し加わる)楽しみ」でした。抑圧され、虐げられている者だけが味わうことのできる解放の喜びでした。
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「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた」。この言葉は、降誕祭のミサで告げられ、著名な作曲家たちのミサ曲の主題に取り上げられたりしていることから、多くの人々になじみ深いものとなっています。キリスト教の伝統は「みどりご」の預言を、イエス・キリストに宛てはめて理解しています。しかし私たちは、イザヤが預言するみどりごを700年後のイエス・キリストに重ね合わせる前に、まず、同時代の人々の中にその成就を見る努力をしなければなりません。
この預言は、6章に始まるイザヤの召命との関わりでなされた一連の預言の最後のものです。したがって、同じ文脈の中で、共通の時代背景を持つものとして解釈されなければなりません。
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イザヤは、この小さく無力な状態にある「みどりご」の民には「権威」が備わっている、と宣言します。しかもそれは、富と力を後ろ盾にした世間的な価値観に基づく権威ではありません。世俗の権威は、後ろ盾にしている富と力が取り去られると消失してしまいます。それは、権威というよりは”権力”に過ぎないものです。みどりごの民に備わる権威は、社会の底辺、これ以上おとしめられようのないどん底に立って、なおかつ損なわれることのない正真正銘の、神からの権威です。イザヤはこれを、「ダビデの王座とその王国」の”権威”と見ています。ですから、このみどりごには神ご自身にかぶせられる称号が与えられるのです。実に、この「みどりご」こそ、新約のイエス・キリスト、社会の底辺に降り立ち、抑圧された貧しい人々と共に歩み、その苦しみと痛みを共感しつつ、弱さと無力さの極みである十字架のうえから支配した、「王であるキリスト」(ヨハネによる福音書19・8 - 16)と一直線に結び付くと言えるでしょう。