じじぃの「人の死にざま_1526_ジョセフ・マッカーシー(赤狩り)」

Senator Joseph McCarthy, McCarthyism, Red Scare 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=maO-fGhAOmE
ジョセフ・マッカーシー ウィキペディアWikipedia)より
ジョセフ・レイモンド“ジョー”・マッカーシー(英語: Joseph Raymond "Joe" McCarthy, 1908年11月15日 - 1957年5月2日)は、アメリカ合衆国の政治家。ウィスコンシン州選出の共和党上院議員(任期:1947年 - 1957年)。
マッカーシーとそのスタッフは、「マッカーシズム」と呼ばれたアメリカ合衆国政府と娯楽産業における共産党員と共産党員と疑われた者への攻撃的非難行動で知られる。

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『世界を変えた100日 - 写真がとらえた歴史の瞬間』 ニック・ヤップ/著、村田綾子/訳 ナショナルジオグラフィック社 2008年発行
1954年3月9日 マッカーシズムの終焉 (一部抜粋しています)
政治家としてのキャリアのはじまりから、ジョセフ・マッカーシー(1908〜1957)は恐しいほど意志をつらぬく人物だぅた。兵役記録を偽り、敵を中焦しながら、彼は瞬く間に米国の政界の階段をのぼりつめていく。1947年、ウィスコンシン州共和党上院議員に就任すると、彼は民主党閣僚たちへ攻撃を開始した。
反共ヒステリーをあおるというアイデアは、1950年、ローマ・カトリック教会の神父に吹きこまれたものだった。マッカーシーはその年の上院選再出馬に際し、この戦術を巧みに用いた。また、当時の朝鮮戦争に対する国民の不安を利用し、”赤の恐怖”をつくりだした。マッカーシーの強引な主張により、共産主義者が書いたとされる3万冊の書物が全米の図書館から追放された。学者や政治家、コメンテーターらはマッカーシーを恐れ、反撃した者はわずかだった。
1954年、マッカーシーは米陸軍に攻撃の矛先を向け、高官たちを売国奴ソ連のスパイと糾弾した。大統領選のキャンペーンでは彼の支援を受けたアイゼンハワー合衆国大統領だが、この行為に激怒。マッカーシーの敵対者たちは反撃を開始した。そして3月9日、テレビ番組『シー・イット・ナウ』で、エドワード・R・マローが有名な告発を行なう。マローは言った。「調査と迫害との一線ははっきりしています。そしてウィスコンシン州の新進上院議員は、この一線を何度も踏み越えました」。半年後の12月2日、上院は67対22でマッカーシーの譴責(けんせき)決議を採択した。1957年5月2日、マッカーシーは急性肝炎により48歳で死亡した。