じじぃの「人の死にざま_1515_リヴィングストン(探検家)」

Dr.David Livingstone : Missionary & Explorer [ Documentary ] 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=oJ6V1qXbc2Y
David Livingstone

デイヴィッド・リヴィングストン ウィキペディアWikipedia)より
デイヴィッド・リヴィングストン(David Livingstone、1813年3月19日 - 1873年5月1日)は、スコットランドの探検家、宣教師、医師。
ヨーロッパ人で初めて、当時「暗黒大陸」と呼ばれていたアフリカ大陸を横断した。また、現地の状況を詳細に報告し、アフリカでの奴隷解放へ向けて尽力した人物でもある。
1971年からスコットランドでのポンド紙幣発行権を持つ銀行の一つ、クライズデール銀行が発行する10ポンド紙幣に肖像が使用されていた。

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『誰も書かなかった 世界史「その後」の謎』 雑学総研 中経の文庫 2014年発行
アフリカ大陸横断達成後、探検家・リヴィングストンはどうなった? (一部抜粋しています)
1855年ヴィクトリアの滝を「発見」し、翌年には約4500キロにおよぶアフリカ大陸横断の旅を成し遂げたスコットランド生まれの探検家デイヴィッド・リヴィングストン
彼の経歴を一言で説明すればこのようになるのだが、実は彼がアフリカ大陸をめざした理由は、キリスト教の布教にあった。彼の両親は信仰に篤いクリスチャンで、その影響を受けたリヴィングストンは宣教師になろうと心に決めていたようである。
苦学してスコットランドの名門・グラスゴー大学に進んだリヴィングストンは、医師の資格を取ったのちの1840年、ロンドン伝道協会の医療伝道師としてアフリカへ渡る。そして、布教をしながら先住民が住む地域へ積極的に足を延ばして彼らの言語や風俗などを学び、カラハリ砂漠ザンベジ川の存在を確認し、ヴィクトリアの滝の「発見」へといたるのである。
アフリカ大陸横断を成し遂げたリヴィングストンは、資金が底をついたため、1856年12月にいったん帰国する。
さて、その後リヴィングストンはどうなったのだろうか?
アフリカ大陸の魅力に取り憑かれた彼は、実はその後も同地へ渡っている。そして三度目の旅行において、あの有名な新聞記者ヘンリー・スタンリーとの出会いと自身の死が訪れるのだ。
1866年、東アフリカのザンジバル(現・タンザニア)を起点にタンガニーカ湖タンザニア南部)をめざして出発したリヴィングストンであったが、途中で消息が途絶えてしまう。
この状況において現地へ派遣されたのが「ニューヨーク・ヘラルド」紙の新聞記者であったスタンリーで、社主の「リヴィングストンを救出して大スクープを取ってこい」という命のもと、タンガニーカ湖の畔でリヴィングストンを発見する。ときに1871年11月。このときスタンリーは31歳、リヴィングストンは58歳になっていた。
リヴィングストンを見つけたスタンリーははじめて口にした言葉が「リヴィングストン博士でいらっしゃいますか?」というのはよく知られたエピソードである。
リヴィングストンとスタンリーは数ヵ月をともにするが、リヴィングストンはスタンリーとともに帰国することなく、ナイルの源流を発見するという目標を成し遂げるためさらなる滞在を望み、1873年5月、病により亡くなった(享年60)。死因は赤痢であるようだが、このときじはじめてかかったのではなく、それ以前から何度もかかっていたようだ。
リヴィングストンの遺体はザンジバルで埋葬されそうになったが、イギリスへと送られ、ウェストミンスター寺院へ葬られることとなった。なお、亡骸が彼のものであると確認されたのは左腕に残された傷跡によるもので、これは最初の旅においてボツワナにてライオンに噛まれた跡であった。