じじぃの「人の死にざま_1514_玄宗(唐)」

伝記レビュー【玄宗】享年78 動画 YouTube
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息子の嫁を奪った皇帝 <安史の乱 動画 YouTube
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玄宗 (唐) ウィキペディアWikipedia)より
玄宗(げんそう)は、唐の第9代皇帝。諱は隆基。
治世の前半は開元の治と呼ばれる善政で唐の絶頂期を迎えたが、後半は楊貴妃を寵愛したことで安史の乱の原因を作った。

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『中国 かなりこわい闇の歴史---学校じゃここまで教えない!』 歴史の謎を探る会 KAWADE夢文庫 2011年発行
安史の乱――楊貴妃への深い愛が招いた大戦乱 (一部抜粋しています)
則天武后の再来を狙った太平公主の野望を阻止したのは、玄宗である。玄宗によって糖の女禍の危機はいったん封じ込められ、玄宗は「開元の治」とよばれる平和な時代をもたらした。
ところが、それも長くはつづかなかった。こんどは玄宗自身が女性にうつつを抜かしてしまったからである。玄宗が62歳のとき、見初(みそ)めた女性の名は楊貴妃である。
楊貴妃は、もともと玄宗の子の妻だったが、玄宗は略奪してしまう。それだけならまだよかったが、玄宗楊貴妃を愛するあまり、楊貴妃の一族を次々と取り立てる。やがて、楊国忠が権力中央に座ると、それに反発する者が現れた。節度使安禄山である。
安禄山は当時、唐屈指の事実上の実力者だった。父はソグド人の武人、母は突厥人の名門であり、漢人の血をひいてはいなかったものの、その実力を評価され、節度使に任じられていた。
節度使は、辺境の防衛を任務とする駐屯軍である。唐は10の節度使を置き、そのうち3つの節度使安禄山が掌握していた。玄宗は、その実力を買って重用していたのだが、楊国忠が台頭したことで、両者のバランスが崩れてしまう。755年、安禄山楊国忠による粛清を恐れて、先手を打って挙兵する。
安禄山は、突厥の血をひくだけに、強者として知られる突厥と友好関係を保っていた。安禄山突厥軍を味方に引き寄せて精力を増し、洛陽を陥落させ、長安に向かう。
いっぽう、玄宗は、長安を捨て蜀へ逃亡しようとした。その途中で、玄宗の護衛軍団も反乱を起こした。乱の元凶は楊一族であるとし、楊国忠を斬殺したのだ。玄宗は、兵士らに迫られて、泣く泣く楊貴妃も殺さざるをえなくなった。
こうして、乱の原因となった楊国忠が抹殺されたことで、唐軍も反抗に転ずる基盤ができた。ただ。唐軍は、自軍だけでは安禄山に対抗できなかったので、モンゴル高原ウイグルに加勢を依頼する。ウイグルはトルコ系民族で、同じトルコ系の東突厥を滅ぼし、精力を拡大していた。中国国内の戦乱は、国内の軍勢同士の争いを越えて、突厥ウイグルという遊牧民族のライバル激突の舞台にもなったのだ。
いっぽう、安禄山の反乱軍は自壊しつつあった。統制が乱れ、安禄山は子・安慶緒に殺害されてしまう。安慶緒はリーダーの器ではなく、安禄山の部下だった史思明に殺害される。この乱は安禄山と史思明の乱だったことから、「安史の乱」とよばれるようになった。