じじぃの「神話伝説_80_出エジプト記(旧約聖書)」

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The Legend of Sargon 動画 YouTube
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King of Akkadian & Moses

モーゼは実在の人物だったのですか? 2011/4/6 Yahoo!知恵袋
回答1
実在の人物です。
モーセの存在を否定すると、律法や契約の箱の中身もですし、メシアに関する預言「私のような預言者をおこす―申命記18章5節」など…全部を否定することになりますね。
聖書以外の直接的な裏付け証拠はないものの、記述の歴史的正確性があります。
回答2
実在かどうかは知りませんが、海開きの奇跡は、エジプトの神官、ジャジャ・エム・アンクの逸話から持ってきたものです。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1059579355
出エジプト記 ウィキペディアWikipedia)より
出エジプト記』(英語: Exodus)は、旧約聖書の2番目の書であり、『創世記』の後を受け、モーセが、虐げられていたユダヤ人を率いてエジプトから脱出する物語を中心に描かれている。モーセ五書(トーラー)のひとつであり、ユダヤ教では本文冒頭の言葉から『シェモース』と呼ぶ。全40章から成る。
サルゴン (アッカド王) ウィキペディアWikipedia)より
サルゴン(Sargon、在位紀元前2334年頃 - 紀元前2279年頃)は古代メソポタミアの王。アッカド帝国を建国した、古代オリエント政治史上最も重要な王の一人である。
サルゴン伝説】
サルゴンは女性祭司(恐らく神殿娼婦)の子として生まれたためその出生を隠され篭にいれられてユーフラテス川に流された。そしてキシュ王に仕えた庭師ラーイブム(La'ibum)に拾われて育った。その後キシュ王ウル・ザババの酌を務める役人としてキシュ王国に仕えることとなる。

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旧約聖書の謎 - 隠されたメッセージ』 長谷川修一/著 中公新書 2014年発行
出エジプト (一部抜粋しています)
ヨセフがエジプトで出世して、権勢の頂点に到達したころ、ヨセフの父ヤコブとヨセフの兄弟たちが住んでいたカナン地方(パレスチナ)は、激しい飢饉に見舞われた。この飢饉はエジプトをも襲ったが、エジプト全土は食糧窮乏を免れていた。ヨセフはこの飢饉を予期し、ファラオの王宮の穀物蔵に十分な穀物を貯蔵していたのである。
一方、ヤコブとその息子たちは、飢饉のために家族と家畜の群れを連れて、とうとうエジプトへの移住を決めた。その後、彼らはヨセフと邂逅し、、エジプトに住むことになったのである。(創世記42-50章)。
ここまでが創世記で語られる「入エジプト」、すなわち、イスラエル人がエジプトに住むようになった背景である。
次に続く出エジプト記の冒頭では、時代が一気に400年近く経過している。400年という長い時代についてまったく記述がないのは、物語の都合上だろう。この間、聖書筆者にとって書くに値する重要な出来事がなかった、ということだ。
こうした省略は、出エジプト記が物語として編まれたことをよく表している。史実を語っているかどうかは別問題だが、その内容を軽々に歴史書の内容と同様に扱うことができないことはこういった点からも理解できよう。
さて400年余りが経過し、完全な世代交代が終わると、「ヨセフのことを知らない」新ファラオのもとで(出エジプト記1章8節)、エジプトにいるイスラエルの民は苦しみ始める。これが出エジプト記の始まりである。
この様子を出エジプト記は次のように記している。
 エジプト人はそこで、イスラエルの人々の上に強制労働の監督を置き、重労働を課して虐待した。イスラエルの人々はファラオの物資貯蔵の町、ピトムとラメセスを建設した。しかし、虐待されればされるほど彼らは増え広がったので、エジプト人はますますイスラエルの人々を嫌悪し、イスラエルの人々を酷使し、粘土こね、れんが焼き、あらゆる農作業などの重労働によって彼らの生活を脅かした。彼らが従事した労働はいずれも過酷を極めた。(出エジプト記1章11-14節)
このファラオは、当時エジプト人が「ヘブライ人」と呼んでいたイスラエルの民の新生児のうち、男児をすべて殺すよう命じた(出エジプト記1章15-22節)。
モーセはこうした時代にエジプトに生まれた。男児殺害命令のため、まだ赤子のうちに籠に入れられ、ナイル川のほとりに置かれたが、ファラオの娘に拾われ、彼女の子としてエジプトの宮廷で育つことになった。
この赤子を拾ったファラオの娘は彼を「モーセ」と名づけた。「水の中からわたしが引き上げた(マーシャー)のですから」、と、彼女はわざわざ読者のためにその名の由来をかたっている(出エジプト記2章1-10節)。
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そこで、もっとモーセの時代に近いエピソードを紹介しよう。
これは紀元前3千年記にメソポタミアの覇者となったアッカドサルゴン大王にまつわるもので、モーセ誕生より少なくとも1000年以上も前の出来事である。
 私は、偉大な王、アガデ(アッカド)の王サルゴンである。
 私の母は、エニトゥという女神官で、私の父を私は知っていなかった。
 私の父の兄弟は、山に住んでいた。
 私の市(まち)は、エウフラテス川の岸にあるところのアズピラヌである。
 エニトゥである私の母は、私を孕(はら)み、ひそかに私を生んだ。
 かの女は藺(い)の籠の中に私をいれ、瀝青(れきせい)でかの女は私の扉を閉じた。
 かの女は、私(の身の丈け)に達しない川に私を投げ入れた。
 川は私を支えて、私を潅漑人(水利人)アッキのところに運んだ。
 潅漑人アッキは、かれの水差を近づけて(水に漬けて)私をとり出した。
 潅漑人アッキは、かれの子として私を[とり上げ]、私を養育した。
        (杉勇ほか訳『筑摩世界文学大系1 古代オリエント集』筑摩書房 1978年より)
一読して、モーセの誕生と少年時代の物語と共通点が多いのは明らかだろう。サルゴンは赤子のときに籠の中に入れられ、川に捨てられたところを、ある人物に拾われて育てられたのである。
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モーセ十戒の他にも神から律法を授かっている。聖書は、法や宗教の規定を含む600以上の律法をモーセが受け取ったと記述している。
これらは出エジプト記の21-23章に記載され、さらに申命記の6-8章で繰り返されている。さらにレビ記に記載されている律法もこれに加える研究者もいる。食物規定(食のタブーなど)を含むこうした律法は、その後、イスラエルの人々が守り続けるよう授けされたものであり、実際、敬虔なユダヤ教徒の生活は今でもこの律法に支配されているし、キリスト教イスラム教もこうした律法から多大な影響を受けてきた。
出エジプト記申命記にたびたび登場する律法の多くは、「条件法」と呼ばれるもので、「もし……なら」と特定の条件を述べた後、それに対応する規定や罰則が書かれる、というものだ。このうちのいくつかは古代オリエント世界の法典と一致している。有名なものにはウル・ナンム、エシュヌンナ、リピト・イシュタルの各法典があり、とりわけ有名なのは何をおいてもハムラビ法典ハンムラビ法典とも)である。
ハムラビは紀元前18世紀前半にバビロンの王であった。ハムラビ法典は高さ2メートル以上もある閃緑岩(せんりょくがん)に刻まれ、王国内の大都市にはこの写しが建てられたと考えられている。もちろんほとんどの人はここに楔形文字で刻まれた条文そのものを読むことはできなかった。
石の一番上部には、向かって左側にハムラビが立ち、右側に座る正義の神、太陽神シャマシュから法典を受け取る場面が描かれている。
この下に282条から成る条文が楔形文字で刻まれている。本物の法典はパリのルーブル美術館にあるが、実物大の精巧なレプリカが、東京・池袋の古代オリエント博物館や三鷹の中近東文化センターにあるので、見てみたいけれどもパリまではなかなか行けない、という読者にはそちらで一見することを勧めたい。
ハムラビ法典の中には「目には目を、歯には歯を」など、成立年代の問題はさておき、モーセの律法と共通する条文が少なくない。このことも、シュメールに始まったメソポタミア文明との関連で旧約聖書を考えることの大切さを教えてくれる。