じじぃの「人の死にざま_1438_ウィリアム・ハーヴィ」

William Harvey and the circulation of blood 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=ljtwXeM2Tnk
血液大循環

ウィリアム・ハーベー ウィキペディアWikipedia)より
ウィリアム・ハーベー(ハーヴィ、ハーヴェー、William Harvey、1578年4月1日 - 1657年6月3日)は、イギリスの解剖学者、医師。血液循環説を唱えた。
ケンブリッジ大学に学んだのち、イタリアのパドヴァ大学で解剖学者ファブリキウスに師事して医学の学位を取得する。イギリスに帰国後、名医としての評判を確立し、1618年、当時のステュアート朝の国王であったジェームズ1世の侍医となる。ジェームズ1世の死後は、のちにピューリタン革命で処刑されるチャールズ1世に仕えた。1645年からオックスフォード大学マートン・カレッジの学長(Warden)を務めた。
1628年、血液循環説を発表した。これは、激しい反論を呼んだ。特に、アリストテレスの説を信じる学者からの否定意見が多かった。

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『科学革命 (サイエンス・パレット)』 ローレンス・M・プリンチペ/著、菅谷暁、山田俊弘/訳、 丸善出版 2014年発行
解剖学 (一部抜粋しています)
初期近代の時期に解剖学はおおきな発展をとげました。ガレノスは古代に解剖学の重要性を強調しましたが、ローマ人は解剖によって死体を冒涜するのは社会的にも倫理的にも受け入れられないと考えていたため、ガレノスはサルやイヌを解剖し、発見したことを類推によって人間い当てはめました。
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血液と体液の運動へのこの関心は、部分的には、ウィリアム・ハーヴィが1628年に発表した血液循環のための議論に由来します。ガレノスによれば、静脈系と動脈系は分離された単位でした。肝臓ははたえず暗い色の静脈血をつくり、静脈がそれを体中に栄養分として配送します。この血液の一部は心臓に引き込まれ、左右の心室を分ける組織すなわち隔壁のなかの孔を通り抜けます。その場所で、肺動脈を経由して肺からもたらされた空気が、暗い色の血液を明るい色の動脈血に変換し、次にそれが動脈系を通じて体に栄養を送るのです。血液が心臓に戻ることはありません。しかし16世紀の解剖学者たちは、ガレノスの体系に疑問を抱きました。彼らは隔壁のなかの孔の存在を疑い、肺動脈は空気ではなく血液で満たされていることを発見しました。この最後の観察が「小循環」の提案に行き着きます。すなわち静脈血は心臓からきて胚を通り抜け、次いで心臓に戻ってから体中に流れるわけです。パドバァ大学でハーヴィは、当時最高の解剖学者たち、とりわけアクアペンデンテのジローラモ・フィァブリツィオ(1537 - 1619)のもとで学びましたが、彼は静脈のなかに発見した「弁」を記載していました。ハーヴィはこの発見に導かれて、より大きな血液循環を考えるようになったとのちに述べています。
ハーヴィが気づいたのは、何らかの血液の循環がなかったなら、心臓によって送りだされる血液の量は、体が供給する量をすぐに越えてしまうだろうということでした。彼は結紮糸(けっさつし)を使って血液を選択的に停止させ、実験によって「大循環」を導きました。すなわち心臓は連結した動脈系と静脈系を用いて血液を循環させているのでした。