じじぃの「神話伝説_30_冥界の王ハデス(ギリシャ神話)」

マンガ ギリシア神話〈3〉冥界の王ハデス

冥界の王ハデスと王妃ペルセポネ

キリスト教の問題点について考える 2013-08-03
キリスト教ギリシャ神話
新約聖書ギリシャ語で著作された文書です。著作された当時はヘレニズム文化が隆盛であって、ギリシャ語は現在の英語のような国際語でした。
そして、ギリシャ語圏にはギリシャ文化も根付いていたでしょう。ギリシャ文化にはギリシャ神話も含まれています。当時のヘレニズム文化圏内の人々にとって、神とはギリシャ神話の神々だったわけです。そのような、ヘレニズム文化に慣れ親しんだ人々を新しい宗教に改宗させるために、そのための導入書である「新約聖書」はどのような性格を帯びている必要があるでしょうか。
そうです。新約聖書は「ギリシャ神話のパロディ」でなくてはならなかったのです。新宗教が発生するには、その土地の風習に無関係な、突飛なものを持ってきても定着しません。たとえば、日本にインドネシア風やアフリカ風の宗教を持ってきても、「エンターテインメントか」程度に思われて終わりでしょう。ですから、どうしても神道風か仏教風のものになってしまいます。日本には宗教を宗教として認識させるためのセオリーがあって、それを守らなければ宗教として見てもらえないわけです。天理教金光教黒住教大本教などは神道の一派とは言えないと思いますが、神鏡を飾って柏手を打つのですから、神道のパロディ宗教と言えるでしょう。また、日蓮正宗創価学会真如苑オウム真理教などは仏教の一派と言う事はできませんが、仏壇や仏教経典を採用しているので仏教のパロディ宗教ということになるのです。
同じように、キリスト教というのは、ギリシャ神話、および同系列のローマ、エジプト神話系のパロディ宗教だという言う事ができるわけです。
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ハデス ウィキペディアWikipedia)より
ハデスは、新約聖書に10回登場する、死者が行く場所である。ギリシア神話の冥界の神ハーデースからとった言葉であるとされている。旧約聖書のシェオルと共通の概念を持っている。

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『マンガ ギリシア神話〈3〉冥界の王ハデス』 里中満智子/著 中央公論新社 2000年発行
解説 ギリシャ神話における死と生 名古屋経済大学助教授 西村賀子 (一部抜粋しています)
人は死んだ後、果たしてどうなるのでしょうか。私たちはこの世を去って、一体どこへいくのでしょうか。死後の世界は人間にとって永遠の謎です。他の民族と同様に、古代ギリシャ人もこの謎にさまざまな答えを出してきました。その1つが本書第1章と第3章に描かれたハデスです。ハデスは死者の国とその支配者の両方を意味しています。
ハデスについて詳しく述べる前に、死後のもう1つの世界で、極楽浄土とも言うべきエリュシオンの野について触れておきましょう。エリュシオンの野は世界の西の果てにあって、雪も雨も降らず嵐も吹かず、これ以上安楽に暮らせる場所はほかにありません。ここに住む特権を与えられるのは神々に愛された特別な人々だけです。たとえば『オデュッセイア』第4歌でスパルタ王メネラオスは、ゼウスの娘ヘレネの夫であるというだけで、死後エリュシオンの野に移ることを約束されます。
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エリュシオンの野あるいは至福者の島とは対照的に、暗く陰気な死者の国、それがハデスの王国です。そこの光景は『オデュッセイア』第11歌でつぶさに語られています。
ホメロスの世界では、死が訪れると同時に魂が肉体から抜け出し、その後、魂はヘルメスに導かれてハデスに入ります。死後の人間は実体のない影のような亡霊となって、ハデスのなかに存在すると考えられました。
本書第3章に描かれているように、ハデスではイクシオンやタンタロス、シシュポス、ダナオスの娘たちなどが永遠の責め苦を受けています。彼らのように果てしない拷問を受ける者もいるにはいますが、ハデスはキリスト教の煉獄や仏教の地獄とはかなりおもむきが異なります。というのは、ハデスで未来永劫救われることのない刑罰に苦しむのは、神々に冒涜を働いたごく一部の重罪人に限られているからです。冥界の王ハデスは決して邪悪なサタンでもなければ、厳格な閻魔大王でもありません。この世で不道徳な行ないを重ねたからといって必ずしも死後ハデスで無限の懲罰を受けるわけでもなく、逆に善行を積めばエリュシオンの野が約束されるわけでもないのです。
それにもかかわらず人々はハデスを恐れました。それは生前の悪行のつけを果てしない苦しみとともに冥府で償わなければならないからではありません。黄泉の国が恐ろしいのは、一度そこに入るとこの明るい世界に二度と戻ることができないからなのです。『オデュッセイア』第11歌でハデスにいるアキレウスは、冥界にやってきたオデュッセウスから「あなたは地上でも幸福だったが、冥府にあっても死者の間で権勢を誇り、今も幸せだ」とたたえられます。しかしアキレウスは、「死者の王として君臨するよりも、貧しい男に雇っわれてでもよいから地上で暮らしたい」と答えます。
この返答には、人生や死に対するホメロス的な考え方がよくあらわれています。アキレウスはなぜ地上での生活を望むのでしょうか。なぜ、エリュシオンの野に行きたいと答えないのでしょうか。1つには、古代ギリシャにはパラダイス願望があまりなかったからです。また1つには、ホメロスの世界の人々は、人間は不死なる神々とは違い、いつか必ず死ぬ存在だということを強く意識したからです。彼らは明るい陽光のもとでの生を、それが有限であるからこそ、こよなくいつくしみました。たった一度の生への愛は人生のさまざまな苦しみを人に乗り越えさせるほど強く、彼らは限りある生を人間として精一杯生きようとしました。