じじぃの「人の死にざま_1422_シスター・ミリアム」

Sister Miriam in her laboratory

Genetics research subject of lively, humanized account Oct 05, 2014 The Columbus Dispatch
Sister Miriam Michael Stimson, a pioneer in DNA research
http://www.dispatch.com/content/stories/life_and_entertainment/2012/07/22/decoding-dna.html
『にわかには信じられない遺伝子の不思議な物語』 サム・キーン/著、大田直子/訳 朝日新聞出版 2013年発行
二重らせんの発見に貢献した修道女 (一部抜粋しています)
シスター・ミリアム・ミカエル・スティムソンは、10年におよぶ苦労が、ライフワークが無に帰したことを、その論文を読んですぐ知ったにちがいない。1940年代をとおして、このドミニコ会修道女はつねに白黒の修道衣を「頭巾とともに」身に着けながら、実り多く順調な研究者としてのキャリアを自力で築いてきた。ミシガンとオハイオの小さな宗教系大学で創傷治療ホルモンの実験を行い、有名な痔の薬(プレパレーションH)の開発にも協力し、その後DNA塩基の形状の研究に楽しみを見いだした。
彼女はこの分野でみるみる成果を上げ、DNA塩基は変わり身、すなわち形を変えるものであり、一瞬でまったくちがう姿になる可能性がある証拠を発表する。この考えは楽しいくらい単純だが、DNAの動きに多大な影響をおよぼした。しかし1951年、2人のライバル研究者が、たった1つの論文で彼女の研究を「くだらない」検討ちがいのものと切り捨て、その説を抹殺した。それは屈辱の瞬間だった。シスター・ミリアムは、女性科学者としての重荷を背負っていた。自分自身の研究テーマに関してさえ、たびたび男性の同僚からの恩着せましい講義を我慢して聞かなくてはならなかった。おまけにこのように公の場で切り捨てられたことで、彼女が苦労して手に入れた信用は、DNAの2本鎖がほどけるように、あっけなく完全に瓦解していった。
実は彼女が否定されたことは、20世紀最大の生物学的発見、すなわちワトソンとクリックの二重らせんの発見に必要なステップだったということが、それから2〜3年のあいだに認識されたことも、あまり慰めにはならなかっただろう。ジェームズ・ワトソンとフランシス・クリックは、人の研究をまとめ上げるだけで自らはほとんど実験しなかったという点で、当時の生物学者としては異例だった。
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1940年代にDNA変わり身説に関する論文を発表したとき、シスター・ミリアムは自分の科学者としての地位が上がるのを期待した。しかし、思い上がりは失敗のもと。1951年、ロンドンの2人の科学者が、酸性と非酸性の溶液で、DNA塩基の水素の位置があちこち変わることはないと確認した。そうではなく、溶液は余分な水素を変な場所に固定するが、または弱い水素を奪い取るか、どちらかである。つまり、ミリアムの実験は人工的で非自然的な塩基をつくり出したのだ。彼女の研究はDNAについて何かを断定する役には立たず、したがってDNA塩基の形は謎のままだった。
しかし、ミリアムの結論はまちがいだったにしても、彼女がこの研究に導入した実験手法のいくつかは、非常に有用であることがわかった。
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それから10年にわたる円盤を使った赤外線実験(およびその他の研究)によって、ワトソンとクリックは正しいことが判明した。DNA塩基の自然な形は1つだけで、完璧な水素結合を生む形なのだ。この時点で、ようやく科学者はDNAの構造を理解したということができた。
もちろん、その構造を理解することが最終目標ではなく、科学者にはまだ先の研究があった。しかし、ミリアムは引き続き優れた仕事をして、1953年にはキュリー夫人以来初の女性科学者としてソルボンヌ大学で講義をしたうえに、89歳になる2002年まで生きたが、彼女の科学への野心は次第に小さくなっていった。活気あふれる1960年代、彼女は頭巾つきの修道衣を脱ぎ捨てた(そして運転を習った)が、このささやかな反抗にもかかわらず、彼女は最後の数十年は自分の修道会に身をささげ、実験をやめている。DNAが実際どうやって複雑で美しい生命をつくりあげているのか、その解明は2人の女性先駆者をはじめとする、ほかの科学者にゆだねたのだ。