じじぃの「神話伝説_26_ヨハネの黙示録(新約聖書)」

池上彰の世界を変えた本 日本人が知らない聖書の謎 2015年07月04日 動画 YouTube
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聖書は事実である.avi 動画 YouTube
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ヨハネ 黙示録の洞窟

ヨハネの黙示録 最後の審判

ヨハネの黙示録 ウィキペディアWikipedia)より
ヨハネの黙示録ラテン語: Apocalypsis Johannis)は、『新約聖書』の最後に配置された書であり、『新約聖書』の中で唯一預言書的性格を持つ書である。
ヨハネの黙示録』は、単に『黙示録』あるいは『ヨハネによる黙示録』、『神学者聖イオアンの黙示録』(日本ハリストス正教会)、『使徒ヨハネ黙示録』(天主公教会)ともいわれ、プロテスタント福音派では(冒頭の言葉から)『イエス・キリストの黙示』と呼ばれることもある。現代訳聖書では『ヨハネが受けたキリストの啓示』である。
【解釈】
『黙示録』は歴史の中でさまざまに論じられてきた。特に『聖書』の中でもここにしか現れない「千年王国」論の特殊性への賛否やキリストの再臨の解釈をめぐって多くの議論を巻き起こした。しかし、歴史の中で現れた多くの解釈をまとめると預言書、文学、普遍的イメージの3つの見方に集約することができるとする立場もある。
・預言書としての解釈
 この見方は『黙示録』を『ダニエル書』などの流れにある終末預言の1つであるとして、未来の事柄についても語られた終末預言書とみる見方である。
・文学類型(ジャンル)としての解釈
 この見方では、『黙示録』は、紀元前2世紀以降のユダヤ教で起こった終末思想とそれにしたがって書かれた『ダニエル書』などの一連の黙示文学の影響を受けたキリスト教的黙示文学であると解釈する。
・普遍的テーマのイメージ化としての解釈
 20世紀以降、『黙示録』を「善と悪の対立」および「善の最終的な勝利」という普遍的テーマを著者のイマジネーションによって自由にイメージ化した作品という解釈が現れた。
ゾロアスター教 ウィキペディアWikipedia)より
ゾロアスター教(英語: Zoroastrianism)は、古代ペルシアを起源の地とする善悪二元論的な宗教である。
ゾロアスター教では、善神群と悪神たちとの闘争ののち、最後の審判で善の勢力が勝利すると考えられており、その後、新しい理想世界への転生が説かれている。そして、そのなかで人は、生涯において善思、善語、善行の3つの徳(三徳)の実践を求められている。人はその実践に応じて、臨終に裁きを受けて、死後は天国か地獄のいずれかへか旅立つと信じられた。この来世観は、のちの後期ユダヤ教キリスト教、さらにはイスラームへも引き継がれた。
世界の終末には総審判(「最後の審判」)がなされる。そこでは、死者も生者も改めて選別され、すべての悪が滅したのちの新世界で、最後の救世主によって永遠の生命をあたえられる。こうした、最後の審判や救世主の登場などの教義もまた、数多くの宗教に引き継がれたのである。

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新約聖書を知っていますか』 阿刀田高/著 新潮文庫 1993年発行
黙示とエピローグ (一部抜粋しています)
エーゲ海の東南にパトモスという小さな島がある。地図で見つけだすのもむつかしいほどの小島である。ギリシャの領土だが、すぐ東側にトルコ領の小アジア半島が迫っている。その間、直線距離を計れば70キロ足らず。歴史的にも小アジアとの関係が深かった。<ヨハネの黙示録>の著者ヨハネは、この島で神の啓示を受け、幻を見た。黙示とは、言葉ではない作用で神の考えが示されることである。それは歴史の終末と神の国を現わす幻影であった。
ときは1世紀の終り近く、ローマ皇帝ドミティアヌスがしきりにキリスト教徒を弾圧していた頃である。パトモス島はローマの流刑地であり、ヨハネがこの島にいた理由も、多分そのこととかかわりがあったろう。イエスの直弟子の1人、使徒ヨハネと混同されやすいが、別人と考える説が有力である。
ヨハネの黙示録>は、まず、小アジアの7つの都市の教会に対する檄文から始まる。7は神聖な数であった。檄文の内容は、それぞれ異なっているが、大略すれば、
「悔い改めよ。初心に帰れ。邪教に惑わされるな。困難を乗り越え、死に至るまで神への忠誠を守れ」
である。ヨハネが言うのではなく、聖霊ヨハネの中に入り込んで言わせているのであり、そのあたりに黙示録の秘密が潜んでいる。
が、それはともかく、ある日、ヨハネが天を仰ぎ見ていると、天の一郭に門が開かれ、ラッパが響くように声が聞こえた。
「ここにあがって来い。こののちに起きることをあなたに示そう」
たちまち体が聖霊に満たされ、イメージが溢れる。幻視のような作用だった。
天の玉座が映り、玉座に神がすわっていた。神は光であった。碧玉のように、赤瑪瑙(めのう)のように輝き、エメラルドの虹が懸っていた。
玉座の周辺には24人の長老が金の冠、白い布をつけてすわり、玉座から、
ガラガラ、ピカピカ、
雷が鳴り、稲妻が走る。玉座のまん前には7つの霊がともし火となって燃えていた。そのさらに手前には、水晶のような海が広がり、玉座を距(へだ)てていた。
4つの生き物がうごめいている。
第1は獅子に似て、前にもうしろにも体中に眼がある。第2は雄牛のよう。第3は人間の顔を持ち、第4は鷲(わし)のような姿である。どれもみな6つの翼を持ち、たくさんの眼を持ち、昼も夜も神を賛美し続けている。
聖なるかな聖なるかな、全能者である神よ、主よ、あって、あり続けるかたよ」
24人の長老も冠を玉座の前に投げ置いて礼拝する。
「主よ、神よ、栄光に包まれたかたよ、あなたは万物を造られ、御心によって万物は存在しているのです」
玉座の右手に巻物があり、7つの封印で封じられている。天使が叫ぶ。
「だれかこの巻物の封を開くものはいないか」
すると、長老が答えて言う。
「見よ。ユダ族から出た獅子、ダビデの子孫が勝利を得て、7つの封印を開く」
子羊が見えた。
子羊にも7つの眼がある。
長老たちが子羊の前にひれ伏し、大勢の天使たちの歌声が聞こえる中で、子羊が封印を開き始める。子羊はイエスを表しているらしい。
第1の封印が開かれると、白い馬が現われ、弓を持つ者が乗っている。冠を与えられ、さらなる勝利を得ようと走り去っていく。
     ・
水晶のように輝く川が流れ、川岸には命の木があって、年に12回実を結ぶ。これは万病を治す特効薬。呪われるものは、なにひとつなく、神と子羊が君臨し、人々は仰ぎ見て礼拝する。世々限りなくとこしえの平和が続く。
天使の声が厳然とヨハネの耳もとに響く。
「これらはみな真実である。神が天使を送って、間もなく起きることをまのあたりに示したのである。見よ、私はすぐに来る。この預言を守る者はさいわいである」
続いて聞こえたのは、子羊であるイエス・キリストその人の声であろうか。
「預言の言葉を秘密にしておいてはいけない。時が迫っている。不正をおこなう者には不正をおこなわせ、穢れる者は穢れるままにしておけ。正しい者には正しいことをおこなわせ、聖なる者には聖なる者とならせよ。見よ、私はすぐに来る。私は報いを携えて来て、それぞれのおこないに応じて報いる。私はアルファであり、オメガである。最初の者にして最後の者である。自分の衣を洗い清める者はさいわいである。彼等は命の木について権利を与えられ、都へ入ることができる。これに反して、犬のような者、魔術を使う者、淫らなことをおこなう者、人を殺す者、偶像を拝む者、偽りを好み、おこなう者は、けっして都の門をくぐれない。私イエスは使いを遣わして諸教会に以上のことを伝えた。私はダビデの子孫、輝く明けの明星である」
ヨハネの幻は消え、ヨハネ自身が自分の描いた幻について、それが神の黙示であることをものめかす。そして新約聖書の最後の言葉は、
”アーメン、主イエスよ、来てください。主イエスの恵みが、すべての者と共にあるように”
である。
微視的にはローマ皇帝の迫害を描き、巨視的にはキリスト教徒に加えられるさまざまな圧迫を時空を越えて想像し、それを怪物に模し、怪物と天使たちのすさまじい戦いのすえ、かならず神の到来することを黙示によって知って記したもの……それが<ヨハネの黙示録>ということになるだろう。