じじぃの「神話伝説_15_ヨブ記(旧約聖書)」

NHK 100分 de 名著 : 旧約聖書 4/4 : 神の沈黙 の意味 動画 dailymotion
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【049】苦難を超える ─ 04 『ヨブ記』の概略 動画 YouTube
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The Book of Job 動画 YouTube
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The Book of Job

名著33 「旧約聖書」:100分 de 名著 「第4回 沈黙は破られるのか」 2014年5月28日 NHK Eテレ
【司会】伊集院光武内陶子 【ゲスト講師】加藤隆(千葉大学文学部教授)、姜尚中聖学院大学学長)
バビロン捕囚が終わり、故郷に帰ることが出来たユダヤ人だが、かつてのように国家を樹立することはできなかった。しかしバビロンという大都会で暮らしたユダヤの人々は、かつてよりも知見を広め、知恵を深めることが出来た。こうした背景の中で生まれた物語のひとつが、有名な「ヨブ記」だ。そしてその後、キリスト教が誕生することになる。
第4回では、ユダヤ人を襲った様々な苦難と、なかなか民を救おうとしない神について、当時の人々がどのように考えていたのかを探る。
http://www.nhk.or.jp/meicho/famousbook/33_kyuyakuseisho/index.html#box03
ヨブ記 ウィキペディアWikipedia)より
ヨブ記』は、旧約聖書に収められている書物で、ユダヤ教では「諸書」の範疇の3番目に数えられている。ユダヤ教の伝統では同書を執筆したのはモーセであったとされているが、実際の作者は不詳。紀元前5世紀から紀元前3世紀ごろにパレスチナで成立した文献と見られている。ヘブライ語で書かれている。
ヨブ記』では古より人間社会の中に存在していた神の裁きと苦難に関する問題に焦点が当てられている。正しい人に悪い事が起きる、すなわち何も悪い事をしていないのに苦しまねばならない、という『義人の苦難』というテーマを扱った文献として知られている。
【内容】
ヨブはウツの地の住民の中でも特に高潔であった。彼は7人の息子と3人の娘、そして多くの財産によって祝福されていた。ヨブが幸福の絶頂にあった頃のある日、天では主の御前にサタンほか「神の使いたち」が集まっていた。主はサタンの前にヨブの義を示す。サタンとてヨブの義を否定することはできないが、サタンは、ヨブの信仰心の動機を怪しみ、ヨブの信仰は利益を期待してのものであって、財産を失えば神に面と向かって呪うだろうと指摘する。サタンの試みは、ヨブの無償の信仰及び無償の愛の世界観の否定である。

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旧約聖書を知っていますか』 阿刀田高/著 新潮文庫 1991年発行
ヨブは泣き叫ぶ (一部抜粋しています)
ヨブ記は、ヨブという男の悲惨な体験を伝える物語であり、旧約聖書の他の部分とは大部趣きが異なっている。関連も薄い。むしろ独立した文学作品のようなもの、詩劇と呼んでも遠くない。大部分が詩歌による問答と独白で構成されている。シナリオが見えて来るような構成である。
もし、このヨブ記でミュージカルを作るとすれば、第1幕第1場は、いと高き天国のどこか、この場面の登場人物はイスラエルの神と、それからサタン、つまり悪魔である。この2人の対比からしてドラマっぽい。神には森繁久彌さん、サタンには……これはなかなかむつかしい役柄だから細川俊之さんあたりにお願いしましょうかね。
ヨブ記におけるサタンは、後世によくあるような、神と対立する悪魔ではなく、神の部下の1人、天使の1人と考えたほうがふさわしい。ただし捻じれた性格の天使で、人間の欠点や罪を見つけ出し、神に報告するのが彼の任務である、と、そう考えてもよいだろう。
私が<詩劇ヨブ記>の演出家であったならば、幕があがると、大勢の天使たちが口々に地上の男ヨブについて噂を語りあっている。これは劇団の下っぱたちである。研究生を終え、ようやく役がついたので、親類縁者がこぞって切符を買い、客席を埋めている。
「ヨブは本当に正しい男だ。神をおそれ、いつも悪を避けて生きて来た」
「その通り。あれほど正しい男はいないね。神様もよくそのことを知っておられる」
「よいおこないを続ける者には、かならずよい恵みがあるものだ」
「まったく。ヨブは7人の息子と3人の娘に恵まれている。みんなよい子どもたちばかりだ」
「財産もすごいからな。なにしろ羊7千匹、駱駝(らくだ)3千頭、牝牛千頭、雌ろば5百頭も養っている」
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「牧場がカルデア人に襲われました。牧童たちは斬り殺され、私1人が逃げて報告にまいりました」
と、ヘナヘナヘナ。カルデア人というのは……本筋と関係ない説明は、削除、削除。
そこへさらにもう1人、召使が駆け込んで来て、
「大変です。ご長男のお宅で、ご兄弟様ご姉妹様、みんなお集まりになってご会食をなさっていらしたとき、荒れ野のほうからにわかに突風が襲って来て家が崩れ、皆さまその下敷きになってなくなられました。私1人がかろうじて逃れてご報告にまいりました」
枯れもまた全身に疵(きず)を負っており、まもなく死んでしまう。
「なんたることだ」
ヨブは茫然自失。ほとんど一瞬のうちに財産も子どもも、すべてを失ってしまった。
冷静な判断を取り戻すまでにどれほどの時間がかかったのだろうか。やがてヨブは立ちあがり、衣を裂き、髪を剃り落とし、地にひれ伏して叫んだ。
「私は裸で母の胎を出た。裸でそこへ帰ろう。神は与え、神は奪う。神の御名は褒めたたえられよ」
着衣を裂くのは激しい悲しみを表わす。髪を剃り落すのは、いっさいの個人的な装飾を捨て神の前で裸になることである。地にひれ伏すのは、言うまでもなく絶対服従の姿である。噂通り信仰心のあついヨブは、こんな不幸にあっても、神を呪うことなく、
――これもきっと神様になにかお考えがあってのことでしょう――
と神への敬愛を失わなかった。
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神は全能であり、人間などが及びもつかないほど賢く、思慮が深い。目先の現象だけ見れば、たしかに積善の人ヨブがむごいめにあうのは、理不尽のように思えるけれども、それももう1つ高い次元に立って眺めれば、意味のあることであり、理に適ったことなのである。それを知らずに人間が神と対等に賢いものと考えてしまう、その高ぶりこそ、害となるものである……と。
たとえば……そんなこと旧約聖書のどこにも書いていないけれど、わかりやすいたとえ話を私が作って記すならば、2千年あまり昔にヨブが存在し、とてつもない苦痛に苦しみ、それによってヨブ記に記されているような神学的な問題が以後の人間たちに伝えられ、ずっと思案の基(もとい)となる。それがヨブの役割であり、この世を治める神の思召しであった。こんな重大な役割を務めること自体が、ヨブの栄光であった、と、そう考えることだってできるわけである。
ほかの男ではこの役割を果せなかっただろう。ヨブだからこそできた。それが人類への福音であるならば、ヨブはもって瞑(めい)すべし、ではあるまいか。神には、それが見えたはずである。
私なんか、根っからの意気地なしだから、後世の長い年月に渡って、
――りっぱな人だったなあ――
などと評されるより、とりあえず苦痛や苦労のないほうがうれしいし、そっちの道を選んでしまうけれど、ヨブはきっとちがっていただろう。それがわかれば、ヨブはもっと心が安らかだったろうけれど、神は簡単には語らない。黙ってそういうことをやる。黙ってやらなければ効果を薄い。だから人間は全能の神をひたすら信ずるという方法でしか神の心を知ることができない。エリフの主張もそのことを告げている。
ドラマは第4章に入り、ついに神の声がつむじ風の中からヨブに届く。神は自分が全能であることを説き、ヨブは悟った。
そう、ヨブは悟ったのである。ここでは仏教用語の”悟り”という表現がふさわしいだろう。ありていに言えば、AさんもBさんもCさんもエリフも、そして神の言葉さえも、本質的にそうちがっているとは思えない。同じことをさまざまな言い方で告げているようにも見える。だから、ここでは論理を論理として理解するのではなく、論理を信じる作用が、悟りのようなものが、くり返しくり返し交わされた論争の中からヨブの中に込みあげて来た、と、私には感じる。
ヨブ記は難解であり、たくさんの意味を含んでいる。これ以上は読者諸賢がみずから長い原文をくり返しくり返し読んで悟っていただくよりほかにない。