じじぃの「人の生きざま_430_淀川・長治」

日曜洋画劇場 淀川長治さんを偲んで ヒストリー
鶴見の自宅から六本木のテレビ朝日まで通い、隔週火曜日に2本試写、その翌週火曜日に2本の解説を収録する、というスケジュールを何十年と続けてくれた。
しかし、晩年は生来のタバコ好きがたたってか、気管支を痛めてしまい、その病をきっかけに全日空ホテルで生活するようになったという。
淀川氏の解説では、写真を挿入することもあったが、その写真素材も自らで用意することもあったという。それだけわずか数分の一人しゃべりに情熱を傾けていたわけだ。
淀川氏の死をきっかけに、映画番組での解説者はすっかり消えてしまった。当時を知るスタッフからは「寂しい」という声も聞かれる。
http://www.tv-asahi.co.jp/nichiyou/history/02.html
淀川長治 - あのひと検索 SPYSEE
http://spysee.jp/%E6%B7%80%E5%B7%9D%E9%95%B7%E6%B2%BB/14782
淀川長治氏 日曜洋画劇場 ターミネーターエンディング Terminator Ending 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=TAkAKHGEVxs
淀川長治

淀川長治 ウィキペディアWikipedia)より
淀川 長治(よどがわ ながはる、1909年(明治42年)4月10日 - 1998年(平成10年)11月11日)は、日本の雑誌編集者、映画解説者、映画評論家である。約32年にわたって「日曜洋画劇場」の解説を務め、ヨドチョーさん、ヨドさんの愛称のほか、その独特の語り口からサヨナラおじさんとして親しまれた。
【その死、その後】
1998年(平成10年)9月6日、生涯の親友であった黒澤が死去。通夜に参列した淀川は、すでに自らの死も近いことを悟っていたのか、棺の中の黒澤に向かって「僕もすぐに行くからね」と語りかけていたという。それからわずか2ヵ月後の1998年(平成10年)11月11日午後8時11分、腹部大動脈瘤破裂に伴う心不全により死去。享年89。奇しくも父・又七と同じ命日であった。生涯独身で子供がいなかったため、喪主は姪である編集者の淀川美代子が務めた。彼は死の前日(1998年(平成10年)11月10日)にも車椅子で『日曜洋画劇場』のスタジオに入り、『ラストマン・スタンディング』の解説収録を行っていた。

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『逢えてよかった!』 永六輔/著 朝日新聞社 1995年発行
淀川長治さん――人生を支えてくれた淀川語録 (一部抜粋しています)
三木トリロー文芸部に投書をしているころ、高校生の僕は「映画の友―友の会」に通うのが楽しみたった。淀川長治編集長の話と、当時はまだ香るように美しかった女盛りの古森和子さんに胸をときめかせていたのである。
集まる学生の中に和田誠さんや横尾忠則さん、篠山紀信さんがいた。
みんな映画だけが楽しみな時代だった。
淀川さんには今会っても少年のようにあしらわれる。
友の会での淀川語録はその後の人生を大きく支えてくれた。
「嫌いな人に会ったことが無い」
「一流のものを見なさい。聴きなさい、食べなさい」
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歌舞伎も能狂言も淀川さんにその楽しみ方を教わったのである。
『映画の友』が廃刊になった時の寂しさ。そして、淀川さんがテレビに出演して『ララミー牧場』の解説をなさるようになった時のうれしさ。
「サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ」より前の話である。
こうして徳川無声に代表される話芸の時代から、話術の時代になる。
淀川話術は「サヨナラ」を一言で決める自身が無いから何回でも繰り返して別れを惜しむ。新鮮であり、何よりも自然だった。
「読む言葉」から「話す言葉」への変化である。
最近の淀川語録。
「嫌いな人に会ったことが無いっていうのはコツがあるの。嫌いな人は徹底的に避けますの」