じじぃの「人の生きざま_373_ベアテ・シロタ・ゴードン」

戦後ニッポン「男女平等」の光と影 ベアテ・シロタ・ゴードンさん死去に思う 2013年1月3日 Yahoo!ニュース
終戦直後、連合国軍総司令部GHQ)民政局の一員として日本国憲法の起草に参加し、24条の「男女平等」条項を書いた米国人女性ベアテ・シロタ・ゴードンさんが昨年12月30日、膵臓がんのためニューヨークの自宅で亡くなった。89歳だった。
共同通信に対して、ベアテさんの娘のニコルさんは「母は生前、憲法の平和、男女同権の条項を守る必要性を訴えていた。改正に総じて反対だったが、この2つ(の変更や削除)を特に懸念していた。供物で弔意を示したい場合は、代わりに護憲団体・9条の会に寄付してほしい」と語ったそうだ。
http://bylines.news.yahoo.co.jp/kimuramasato/20130103-00022914/
ベアテ・シロタ・ゴードン - あのひと検索 SPYSEE
http://spysee.jp/%E3%83%99%E3%82%A2%E3%83%86%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%AD%E3%82%BF%E3%83%BB%E3%82%B4%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%B3/26560
新・平成日本のよふけ:ベアテ・シロタ・ゴードン(1/2) 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=K6UDzlNtdo8
新・平成日本のよふけ:ベアテ・シロタ・ゴードン(2/2) 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=VKxOXmBketo
ベアテ・シロタ・ゴードン ウィキペディアWikipedia)より
ベアテ・シロタ・ゴードン(Beate Sirota Gordon, 1923年10月25日 - 2012年12月30日)は、ウィーン生まれでウクライナユダヤ人(ロシア統治時代)の父母を持ち、少女時代に日本で育った米国国籍の舞台芸術監督、フェミニスト。1946年の日本国憲法制定に関わった人物として知られており、このうち2012年まで存命した唯一の人物であった。
22歳で連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)民政局に所属し、GHQ憲法草案制定会議のメンバーとして日本国憲法の起草で人権条項作成に関与した。 日本では日本国憲法第24条(家族生活における個人の尊厳と両性の平等)草案を執筆した事実が1990年代になって知られ、著名となった。戦後はニューヨークに居を構え、ジャパン・ソサエティ、アジア・ソサエティのプロデューサー・ディレクターとして世界の民俗芸能を米国に紹介。アジア・ソサエティを退職後、パフォーミング・アーティストを集めて世界中を公演するキャラバン(文化交流事業)の実現を目指した。
2012年12月30日、膵臓がんのためニューヨークの自宅で死去。89歳没。

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お茶の水女子大学特別講義 世界を変えた10人の女性』 池上彰/著 文藝春秋 2013年発行
ベアテ・シロタ・ゴードン(Beate Sirota Gordon) (一部抜粋しています)
ベアテ・シロタ・ゴードン。「シロタ」という名前が入っているものですから。日系かなと思ってしまいますが、そうではありません。日本じゃなくても、シロタ(Sirota)という苗字があるということです。ベアテ・シロタさんがゴードンさんという人と結婚をしてベアテ・シロタ・ゴードンさんになりました。
ベアテ・シロタ・ゴードンさん、現在もニューヨークでご健在ということです(この講義の15日後、2012年12月30日死亡、享年89)。
彼女の父レオ・シロタはウクライナキエフで生まれたユダヤ系ロシア人です。9歳でピアノリサイタルを開き、14歳のときキエフ国立オペラ劇場で世界的なオペラ歌手の伴奏を務めるなど、早熟の天才でした。「リストの再来」と言われて、世界的に大変有名なピアニストになります。
父親と母オーギュスティーヌは、ハプスブルク王朝が最後の光芒を放っていた音楽の都、ウィーンで出会いました。母親が指導者をしていた若き弟に、楽屋で8歳年上のレオ・シロタを紹介されたのがきっかけです。母親もキエフ出身のユダヤ系ロシア人ですから、いわば同郷人です。
彼女はすでに人妻で、幼い息子がいました。しかしピアノ教師と弟子という関係を通して恋愛をはぐくみ、世間に後ろ指を指されるのを覚悟で、ついにレオ・シロタの気持ちに応えます。2人が結婚して3年後の1923年、ベアテさんが生れました。彼女はウィーン生まれということになります。
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レオ・シロタは、クリムトなどウィーンの画家たちの間で一種のブームだったジャポニズムに対する知的好奇心もあり、さらに足を延ばして、日本で、1ヵ月間演奏活動を行うことにします。そして、日本人の聴衆は非常に礼儀正しく知的であると、日本のファンになります。そうしたらまた山田耕作から、「上野の音楽学校の教授になってほしい」と頼まれます。上野の音楽学校というのは、いまの東京藝術大学音楽学部のことです。
こうして、いったんウィーンに戻ったレオ・シロタは、改めて家族を連れ、1929年に来日します。滞在は半年の予定でした。ベアテさんは5歳半でした。
しかし一家の運命はこの後、世界第恐慌やナチスドイツの台頭、日本開戦などに翻弄されることになります。
ベアテさんは日本に来て、すぐに日本語が話せるようになりました。彼女は語学の天才です。世の中には、次々といろいろな国の言葉を覚えてしまう人がいます。ベアテさんもその一人でした。
一家は、ウィーンを出て2ヵ月後に大恐慌が起こり、世界の経済情勢がいっそう不景気になったことや、翌年ドイツの総選挙でヒトラー率いるナチスが躍進したことで、帰国を延ばすことにします。
ベアテさんは6歳ぐらいからは大森のドイツ学校に入学します。そこではフランス語や英語、ラテン語の授業もありました。その後ナチの教師がやってきて「ハイル・ヒトラー」を言わされたことなどから、アメリカンスクールに転校します。
結局何ヵ国語を喋れたのかといいますと、日本語、ドイツ語、フランス語、英語、ロシア語、ラテン語、そしてスペイン語と7つです。母親が、「ピアノよりダンスより、あなたは語学に才能があると思うわよ」と言ったことから、語学に熱心に取り込みました。その中の1つである日本語の能力を活かして、日本国憲法の草案づくりに携わるということになります。
ベアテさんは1939年、留学のために単身渡米します。なぜ故郷のあるヨーロッパ方面に向かわなかったかというと、すでに第二次世界大戦が始まりそうな不穏な背景があったからです。
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1945年8月、ようやく戦争が終わります。彼女にとっては、『タイム』の東京特派員が両親の無事を確かめてテレックスを送ってくれた10月が、本当の終戦でした。
ベアテさんは一刻も早く日本に行って両親に会いたいと思います。では、日本に行くにはどうしたらいいか。毎週末、政治の中枢地であるワシントンに通って、日本に行ける仕事を必死で探します。すると、占領政策に必要な人材として採用されれば、日本に行くことができるということがわかりました。
GHQに応募します。日本語が読めて話せること、戦時中、国の機関で働いたことがあることなど、すべてが有利に働き、すぐに採用されます。
終戦直後の日本には、アメリカ兵20万人が駐留していました。そのうち女性は、わずか60人でした。彼女は占領計画を担うごく少数の女性の一人として、懐かしい日本の地を踏みます。
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では、形になった日本国憲法を見ていきましょう。
彼女が女性の権利と子供の権利の担当だったのはもう言いました。女性や子供に限らず、いわゆる弱者とされる人たちが生きていくための権利です。彼女は「女性と子供、恵まれないグループの人々は、特別な保護が与えられる」(幻の第29条参照)べきだと考えていました。
夫婦の平等に関しては、こうなりました。
「①婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。 ②配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない」 (第24条「家族生活における個人の尊厳と両性の平等」)
戦前は、親が決めた人と無理矢理結婚をさせられるということが日常茶飯事でした。しかし、結婚は2人の合意においてのみ成立するということを言っています。
ベアテさんが草案に書いた、婚外子や養子の問題も、ここにあるように「夫婦が同等の権利を有する」としておけば、どちらかが反対した場合はできないということになります。
同じくカットされた「長子(長男)の単独相続権は廃止する」というのも、夫婦平等に立脚して法を制定すべきとあるので、担保されたことになります。

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