じじぃの「人の生きざま_335_香山・リカ」

香山リカ - あのひと検索 SPYSEE
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香山リカ原発推進派は精神障害者」発言 問題の演説 動画 YouTube
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サワコの朝 精神科医香山リカ 130119 動画 Youku
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他人を見下す若者たち 感想 速水 敏彦 読書メーター
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香山リカ (精神科医) ウィキペディアWikipedia)より
香山リカ(1960年7月1日 - )は、日本の評論家、精神科医臨床心理士、占い師。立教大学現代心理学部映像身体学科教授。
本名非公開。黒縁眼鏡がトレード・マーク。

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2006年発行 速水敏彦/著 『他人を見下す若者たち』より
アメリカの精神科医コフート氏によれば、赤ちゃんにとって誇大自己は、一度は手に入れなければならない「私」の姿である。(和田秀樹『<自己愛>と<依存>の精神分析コフート心理学入門―』 PHP新書)。そして、赤ちゃんの時の誇大自己を手放せないまま大人になったのが、自己愛人格の人たちである。子どもの頃、大人があまりにもかわいがり過ぎることで形成された子どもの自己愛が大人になっても変わらないことはあるだろう。例えば、文豪森鴎外の長女・茉莉は父親に相当かわいがられたようで、大人になっても自分の子どもの育児は人に任せ、外出したらいつ帰ってくるかわからなかったらしい。子どものとき形成された自己愛が、大人になっても持続したのである。
そのような人たちは、自分は特別と考え、周りが特別扱いしてくれなかったような場合、「どうしてなのか」と思ったり、怒りやいらだちを感じたり、傷ついたり、劣等感に苛(さいな)まれているようにも見える。あるいは「いまの生活は本当じゃない」と思い、どこかに本当のすばらしい自分があると考え、それを探し求めるという。
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また、精神科医香山リカ氏は、自己愛的性格を多重人格者の1側面として次のように述べている(『<じぶん>を愛するということ―私探しと自己愛―』 講談社現代新書)。
「日本では、多重人格者の別人格の中でも、殺人者や未熟な幼児の人格にはあまり関心が持たれず、芸術的な人格や常人ではできない何かに秀でた人格……の方に目がいってしまう傾向があります。そこには、多重人格になれたら、もしかしたらいまの自分を超えるすばらしい自分がいるかもしれない、いまの私にはできないことができる自分もいるかもしれない、というような気持ちもあるのではないでしょうか。/そう考えてみると、ここも80年代の終わりから続いてきたメッセージ、『いまの自分は本当の自分ではないかもしれない。ほんとうの私はどこか別の場所にいるはずだ』 『しかもそのほんとうの私はいまよりもっとすばらしい私である』が、見えてきます」
このように、誇大視した自己を何回も想像する間に、現代の普通の若者たちも、膨張した自己をいつのまにか自分の内に宿すことになる。
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ある会社の送別会で、上司と別れるのがつらいと言って、泣いてくれた部下たちに、その後その上司が、「一度会おう」ともちかけたら、「私たち忙しいですから」とそっけなく断られたというような話を何かで読んだことがある。その場の雰囲気だけで、悲しめる人たちが増えているのかもしれない。悲しみは、汚れただけでなく、薄っぺらななってしまったのだろうか。
香山リカ氏は『若者の法則』(岩波新書)の中で次のように述べている。
「『また泣いちゃったよ』と照れずに語る若者を見ていると、そうやって泣けるような状況に自分がいるということで、何かを確認しているのではないかとも思える。つまり、自分はその他大勢としてぼんやり生きているわけではない、泣けるような特別なできごとを経験しながら生きている、ということだ。逆に言えば、そうでもしなければ自分の日常はあっと言う間に退屈なものとなり、毎日の記憶も薄れていくのかもしれない。/昔の人間は、生命の危機を回避するためにストレス反応を身につけた。今の若者は、自分喪失の危機から脱出するために、”泣きの反応”を身につけた。ただ、その傾向は大人にも確実に広がっており、だれもが、『泣ける物語』を求めて本を読み、映画を見るようになってきている。『泣かなければ自分が何者かもわからなくなってしまう』という危機感が、世の中全体に広がっているのだろうか」
現代の若者にとって悲しみは、自己を確認するための一種の自己調節の道具として使われているのだろうか。しかし、これが「悲しみ」と言えるだろうか。
多くの若者が本物の悲しみを感じることがないのは、自己や相手としっかり対峙することがなく、仮想敵有能感によって自己を防衛しているからではなかろうか。自分の本当の悲しみに向かい合うことが苦痛で、あるいは恐ろしくて、仮想敵有能感で先手をうっているのかもしれない。しかし、一方で自分自身の感情細胞が渇いていくことに本能的に危機感を抱いて、自分が傷つかないで涙する場面を無意識的に求めているのかもしれない。

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