じじぃの「人の死にざま_1249_田能村・竹田」

風之荘「円相」田能村竹田動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=A2-ZVwIKTes
田能村竹田像 画像
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/1a/TanomuraChikuden%E7%94%B0%E8%83%BD%E6%9D%91%E7%AB%B9%E7%94%B0.jpg
紙本淡彩亦復一楽帖〈田能村竹田筆/〉 文化遺産オンライン
http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=127147
[大分市]【豊後南画】 田能村竹田の作品
https://www.city.oita.oita.jp/www/contents/1328661798947/index.html
田能村竹田 ウィキペディアWikipedia)より
田能村竹田(安永6年6月10日(1777年7月14日) - 天保6年8月29日(1835年10月20日))は、江戸時代後期の南画(文人画)家。旅を好み日本各地を遊歴。詩文を得意とし画論『山中人饒舌』などを著した。
【略歴 】
竹田は筆まめで多くの著作を著している。とりわけ『山中人饒舌』は日本の文人画史・画論として当時から広く読まれ、『屠赤瑣瑣録』では文事や文人趣味などを知る上での資料価値が高い。また『竹田荘師友画録』は師友となった104名の人物評伝を掲載している。
竹田は元末四大家や宋代の米友仁を敬慕。多くの人物との交流から様々な画風を学んだことで山水図・人物図・花鳥図とその画域を広げ、写実を通して文人画のエッセンスともいうべき写意を表現した。晩年は繊細で味わい深い画境に到達し旺盛に創作をした。

                    • -

『旅の半空』 森本哲郎/著 新潮社 1997年発行
竹田(ちくでん)の故郷 (一部抜粋しています)
特急「あそ」4号で大分から豊後竹田(ぶんごたけだ)まで、ちょうど1時間。
ひなびた駅に降り立つと、「荒城の月」のメロディが繰り返し流されていた。何といっても、この町の自慢は、その作曲家、瀧廉太郎を生んだことなのである。むろん、彼の楽想を育てた800年の歳月を秘める岡城址も。
しかし、ぼくが竹田を訪ねたいと思ってやってきたのは、瀧廉太郎よりも、山に囲まれたこの地で、生涯のほとんどをすごした文人画家、田能村竹田(たのむらちくでん)の画境、詩境を一見したいためだった。
江戸の中期から末期にかけて、日本の美術史に多くを占めている大雅、蕪村をはじめとする南画家たちのなかでも、竹田(ちくでん)は最も文人画と呼ばれるにふさわしい画や詩文を遺しているからである。
ぼくが竹田に興味をもったのは。もうずいぶん前のこと、神田の古書店に置かれた小さな画冊を手にしてからだった。帙(ちつ)に収められたその画冊には「亦復一楽」と、趣きのある筆でしるされていた。正直なところ、それを何と読むのかさえ定かではなかったのだが、思い切って買い求めた。そして、その夜、墨一色で複製されている古ぼけた画冊がをめくりながら、いろいろ調べてみたところ、13葉の画と詩文からなるこの画冊が、豊後竹田文人画家田能村竹田の代表作ともいうべき「亦復一楽帖(またまたいちらくちょう)」であることを知った。
その絵に漢文で揮毫(きごう)されている詩文は、簡単に解読できるものではなかったが、大意はつかめた。ぼくは、その文句に少なからず共感し、以来、心が妙に落ちこんだときなどには、必ずこの画冊を開くことにしている。
     ・
天保4年(1833)3月、57歳の彼は大阪、京都へ行って7月に帰国しているが、そのあと、往年を回顧して『竹田荘師友画録』の筆を取った。自分の人生行路で、師となり友となった人びとを、一人一人丹念に記したもので、死の2年前の著述である。それを見れば、だれしも感嘆せざるを得まい。なにしろ、そこには、なんと、105名の師友、それも当代一流の文人、画家、学者が名を連ねているのだから。
たとえば、最も信頼した友人、頼山陽をはじめとし、画人では浦上玉堂、その息、春琴、谷文晃、野呂介石、青木木米、岡田米山人、その息、岡田半江、河村文鳳……好事家で多くの書画を集めた富豪の木村兼葭堂や月峰上人のような画僧も、そのなかにある。ここに記されていないが、管茶山や上田秋成、死の前年に訪ねて大いに談じ合ったという大塩中斎(平八郎)などとの交際を考えれば、竹田がいかに化政同時代の文化人と知り合っていたか、思わず考えさせられてしまう。
ということは。竹田がじつに積極的に、これらの人たちとの交流に努力してきたことを語る。目と耳を患い、病弱だったと自称する彼は、隠棲を望みながら、しきりに知己を求めて、あちこちを歴訪していたのである。
     ・
もうすこし「亦復一楽帖」について、ふれておこう。竹田はこの楽帖の「後書」として、自作を朋友、頼山陽に贈ったいきさつを、つぎのように記している。
竹田が京都の山陽の家に何日か寄寓していた折り、朝起きてみると、山陽は画室をきれいに掃除し、花を活け、香をたき、みずから鴨川の水を汲んで古い瓶(かめ)に注ぎ、端渓(たんけい)の硯(すずり)を用意し、貴重な墨をすり、見事な筆と紙をそろえ、このようにすっかり準備して、竹田に「ひとつ、絵を描いてもらえまいか」と頼んだ。そこで竹田は、その意を感じて、白描(はくびょう)の菊・竹、没骨(もつこつ)の牡丹、草筆(そうひつ)の水仙と梅、3枚を仕上げた。
しかし、山陽が欲したのは、その3枚の絵だけではなかった。竹田が山陽に「亦復一楽帖」を見てもらったとき、この画冊を、どうしても自分のものにしたい、という願望が、山陽の眉間(みけん)にあらわれていた。山陽は、欲しいと思ったら、どんなことがあっても、それを手に入れる人だ。それほど望んでくれるなら、というわけで、竹田は描きあげた3枚の絵を、その画帖に加え、それを山陽に贈った。……。
話は、まだつづく。
大いに喜んだ山陽は、国へ帰る竹田を送って淀川を下り、大阪で何日かすごしたあと、京へ戻るべく船に乗った。そのとき、画帖を紛失していることに気づき、顔面蒼白になった。散々さがしたすえ、やっと見つけたときの彼は、喜色満面、「ああ、よかった、よかった」と言った。そして、この画帖の返礼として、自刻の印を竹田に贈る約束をした、というのである。
山陽と竹田。激しい気性の史家と。穏やかな人柄の画人。この両人が、どうしてそれほど相許す友になったか不思議な気がするが、異なるがゆえにお互いに強く惹(ひ)かれたのであろう。そして、2人を結ぶ絆こそ、「文人」の魂だったのだと思う。化政時代は、こうした文人を日本各地に生み出していたのである。現代の社会には、もう、すっかり姿を消してしまった「文人」の魂を。

                            • -

田能村竹田 Google 検索
https://www.google.co.jp/search?q=%E7%94%B0%E8%83%BD%E6%9D%91%E7%AB%B9%E7%94%B0&espv=210&es_sm=93&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=VoB0UuDwLMOhlQWo5IGoAQ&ved=0CDgQsAQ&biw=1051&bih=594