じじぃの「人の死にざま_1248_保科・正之」

120427 BS歴史館 今いてほしい!?日本を変えたリーダーたち(2)「保科正之 動画 
Youku
http://www.pideo.net/video/youku/4d8f16b3dc406469/
江戸城天守閣が、今「無い」理由〜(みなもと太郎風雲児たち保科正之編より) 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=MqRKFSROpAc
名君 保科正之公とは 名君 保科正之公の大河ドラマつくる会
http://takato-inacity.jp/taiga-drama/%E4%BF%9D%E7%A7%91%E6%AD%A3%E4%B9%8B%E5%85%AC%E3%81%A8%E3%81%AF
保科正之 ウィキペディアWikipedia)より
保科正之(1611 - 1673)は、江戸時代初期の大名。会津松平家初代。信濃高遠藩主、出羽山形藩主を経て、陸奥会津藩初代藩主。江戸幕府第3代将軍徳川家光の異母弟で、家光と4代将軍家綱を輔佐し、幕閣に重きをなした。

                        • -

『世界史の叡智 - 勇気、寛容、先見性の51人に学ぶ』 本村凌二/著 中央公論新社 2013年発行
保科正之 会津の名君が遺した教え (一部抜粋しています)
江戸に幕府が開かれ、数代の将軍が君臨した17世紀。そのころのパリの上水事業は、ひどいものだった。セーヌ河から水車で揚水して水路で配るだけだったという。およそ上水などといえるものではなかった。
ところが、同じころの江戸は違っていた。玉川上水が引かれ、そこから給水された清らかな水が井戸に溜まる。浄水の流れでどの井戸もつながっていたから、年に1回だけ七夕の日に大掃除の一斉作業があったという。多摩川上流の羽村から四谷までの43キロ、標高差92メートルを水路が走るから、1メートル当たり2ミリという高低差の技術だった。
この玉川上水の開削にあたって、最初に尽力したのが保科正之(ほしなまさゆき)である。幕閣たちが水路沿いに敵侵入の危険ありと反対するなか、正之は毅然と反論した。
「一国一郡の小城は堅固なるを以て主とす。天下府城は万民の便利安居を以て第一とす」(『会津松平家譜』)
首都の治世であれば、万民の安泰こそ枢要だと唱えたのだ。ここには、民草の生活を思いやってこそ為政者なり、という高潔な人間の心が脈打っている。
正之は徳川3代将軍・家光の異母弟として生まれた。だが、2代将軍・秀忠が奥女中お静(しず)に手をつけての出生だから、公には認知されず、お静の姉夫婦のもとで育てられた。やがて、武田信玄の娘・見性院にもらわれ、7歳のとき武田家ゆかりの高遠藩主・保科正光の養子となる。
     ・
4代将軍・家綱の治世には、末期養子の禁が緩和され、大名証人(人質)制度が廃止、殉死も禁止されている。関ヶ原の戦いからすでに半世紀を経て、武断主義よりも文治主義の時代になりつつあった。正之はこの感覚にいち早く目覚め、幕閣のリーダーとして働いたのである。
だが、人の世は順風満帆ばかりではない。明暦3(1657)年1月、一説によれば、僧侶たちが火を焚き、棺から取り出した遺品の振袖を焼こうとしたときだった。炎にまみれた振袖がおりからの烈風にあおられ、寺の本堂の柱にまきつく。それが原因となり、江戸期最悪といわれる大火がおこった。80日間一滴の雨も降っていなかったから、火は3日3晩燃えつづけ、江戸の街は焼き尽くした。焼死者は10万人を超えたという。
浅草には旗本が1年間食えるほどの米蔵があり、火の手が迫っていた。火消だけではもはや手がたりない。正之は名案を思いつき、「浅草の米蔵に行けば、米は取り放題だ」と市中に触れまわらせた。焼け出された難民は火を消しながら、浅草に走り、米を運び出す。この機転で、大火後の食糧危機をまぬがれ、江戸の治安が維持された。
しかも、大火で家を失った町民のために幕府の御金蔵から16万両の巨額を与えようと即断する。反対する老中に、正之は「御金蔵とはこんなときのためにある」と一喝した。

                        • -

保科正之 Google 検索
https://www.google.co.jp/search?q=%E4%BF%9D%E7%A7%91%E6%AD%A3%E4%B9%8B&sa=N&espv=210&es_sm=93&tbm=isch&tbo=u&source=univ&ei=fQtzUr2yA4rDkQW23oH4Ag&ved=0CCoQsAQ4Cg&biw=1050&bih=593