じじぃの「人の死にざま_1214_安・重根」

安重根 - あのひと検索 SPYSEE
http://spysee.jp/%E5%AE%89%E9%87%8D%E6%A0%B9/1517
安重根, 大韓義軍参謀中将_02 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=36Z-_vDxaSs
20120517 安重根義士記念館_伊藤博文暗殺は民族の英雄的行為! 動画 Dailymotion
http://www.dailymotion.com/video/xqw60l_20120517%E5%AE%89%E9%87%8D%E6%A0%B9%E7%BE%A9%E5%A3%AB%E8%A8%98%E5%BF%B5%E9%A4%A8-%E4%BC%8A%E8%97%A4%E5%8D%9A%E6%96%87%E6%9A%97%E6%AE%BA%E3%81%AF%E6%B0%91%E6%97%8F%E3%81%AE%E8%8B%B1%E9%9B%84%E7%9A%84%E8%A1%8C%E7%82%BA_lifestyle
[歴史に背く韓国]第二の安重根が生まれる日 2015年04月13日 Web Voice
いまの韓国をみていても、「うまくいかないのはすべて日本のせい」と外部に原因を求める発想が強い。安重根が日本に対していわれなき恨みを抱いたのも、これまたかの国の人間らしくてわかる気がします。
http://shuchi.php.co.jp/voice/detail/2254
プライムニュース 「日韓歴史問題を再検証 慰安婦問題&河野談話 中韓共闘への対応策は」 2014年4月7日 BSフジ
【キャスター】島田彩夏、反町理 【ゲスト】河村建夫(日韓議員連盟幹事長 自由民主党選挙対策委員長内閣官房長官)、西岡力東京基督教大学教授)、金慶珠東海大学准教授)
日米韓首脳会談は実現したとはいえ、日韓関係が雪解けに至るには程遠い状態で、両国間には歴史認識問題が大きく横たわり続けている。
超党派の日韓議員連盟幹事長を務める河村建夫自民党選対委員長らを迎え、未来志向の日韓関係を構築するためには、どう議論と交流を深め、歴史認識問題を解決に導いていけばいいのか、その方策を考える。
前編:http://www.bsfuji.tv/primenews/movie/index.html?d140407_0
後編:http://www.bsfuji.tv/primenews/movie/index.html?d140407_1
プライムニュース 「日韓のトゲ安重根とは 大統領反日姿勢の背景 中韓“蜜月”の思惑は」 2013年12月4日 BSフジ
【キャスター】八木亜希子、反町理 【ゲスト】武貞秀士北アジア国際戦略研究所客員研究員)、永島広紀(佐賀大学文化教育学部准教授)、李泳采(恵泉女学園大学人間社会学部准教授)
日韓両国の歴史認識のギャップを象徴する存在として、最近再び注目を集めている人物がいる。初代内閣総理大臣をつとめた伊藤博文を暗殺した安重根だ。
韓国で安重根は愛国義士として英雄視されており、対中傾斜を強めた朴政権は、中国国内での石碑建立の動きを進めている。これに対し、菅官房長官が「安重根は犯罪者」と不快感をあらわにするなど、新たな火種となっている。これを我々はどのように考え、どう出口を見出すべきかを考える。
前編:http://www.bsfuji.tv/primenews/movie/index.html?d131204_0
後編:http://www.bsfuji.tv/primenews/movie/index.html?d131204_1
寂しき安重根・断指同盟碑、ロシアの立入り統制区で 2009/07/21 聯合ニュース
1909年1月に中国・ハルビン駅で韓国統監府初代統監の伊藤博文を射殺し、民族の気概を示した独立運動家の安重根(アン・ジュングン)の「断指同盟」記念碑が、ロシアの片隅で十分な管理を受けられない状態に置かれている。
記念碑が設置されているのは、ロシア極東・沿海地方ウラジオストクから車で4時間以上かかる、豆満江もほど遠くないロシア・北朝鮮国境の民間人統制区域の村。安重根は1908年4月にロシア地域初の義兵組織を立ち上げ抗日武装闘争を展開、翌年2月7日に11人の仲間とともに伊藤博文暗殺を誓い左手薬指を切断する断指同盟を結び、太極旗に「大韓独立」の4文字を血書した。
http://japanese.yonhapnews.co.kr/headline/2009/07/21/0200000000AJP20090721001900882.HTML
【正論】評論家・屋山太郎 韓国よ、「歴史の真実」に目覚めよ 2013.7.17 MSN産経ニュース
朝鮮の独立は不確かで今度はロシアに傾いていく。朝鮮半島がロシアの植民地になったら、日本にとってはこの上ない脅威だ。日清戦争後、日本は富国強兵を一段と推し進め、1905年にロシアを破って後、韓国を保護国とした。伊藤博文初代統監は当初、併合には反対だったが、ハルビン駅で安重根に暗殺され、併合論が一気に勢いを増す。併合は英米仏独のほかロシアも認めた。
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/130717/plc13071703130003-n1.htm
安重根 ウィキペディアWikipedia)より
安 重根(日本語読み;あん じゅうこん、朝鮮語読み;アン・ジュングン、1879年9月2日 - 1910年3月26日)は朝鮮において初代韓国統監を務めていた伊藤博文(日本の初代内閣総理大臣)を暗殺したテロリストならびに民族主義者。元死刑囚。
伊藤博文暗殺】
1909年10月26日、伊藤博文(暗殺当時枢密院議長)は満州・朝鮮問題に関してロシア蔵相ウラジーミル・ココツェフと会談するためハルビン(哈爾浜)に赴いた。午前9時、哈爾浜駅に到着し、車内でココツェフの挨拶を受けた後、駅ホームでロシア兵の閲兵を受けていた伊藤に、群衆を装って近づいた安重根の放った銃弾3発が命中、伊藤は約30分後に死亡した。狙撃後、安重根は ロシア語で「 コレヤ ウラー!(Корея! Ура!)」(韓国万歳)と大きく叫んだ。
安重根はその場でロシア官憲に逮捕され、2日間拘留された後、日本の司法当局に引き渡された。留置中に伊藤の死亡を知った際、安は暗殺成功を神に感謝して十字を切り「私は敢えて重大な犯罪を犯すことにしました。私は自分の人生を我が祖国に捧げました。これは気高き愛国者としての行動です」と述べたという。
大韓帝国カトリック教会の司教からは大罪を犯した安重根サクラメントを施してはならないという命令が出されたにもかかわらず、懇意であった洪司祭は彼のもとを訪れ支えとなった。彼も収監中は官吏に対し自分を洗礼名で呼ぶよう主張したといわれる。 
抗日闘争に際しての彼の決意の堅さを表すエピソードとして、同志とともに薬指を切り、その血で国旗に大韓独立の文字を書き染めた「断指同盟」の逸話も伝わる。
【投獄と最期】
1910年2月14日、安重根は旅順の関東都督府地方法院で死刑判決を受けたが、彼は判決そのものが不当であると憤慨した。裁判を統轄した判事は、死刑執行までに少なくとも判決後2、3か月の猶予が与えられるとしていたが、日本政府中央は事件の重大性から死刑の速やかな執行を命じた。安は上訴を行い、担当検察官であった溝渕孝雄へ自らの随筆「東洋平和論」を書き終えるために必要な時間の猶予と、死刑の時に身に纏う白い絹の衣装を一組与えてくれるよう願い出た。
3月26日、死刑が執行される。安の死から更に5か月後の8月29日、日韓併合により大韓帝国は消滅した。

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伊藤博文安重根 佐木隆三/著 文藝春秋 1992年発行
終焉 (一部抜粋しています)
三月八日
フランス人のジョセフ・ウィルヘルムが安重根に会うために旅順監獄署を訪れた。
安は控訴期限切れの2月19日、「ムダなことは火を見るより明らか」という理由で、控訴権を放棄していた。法廷における意見陳述は、「公安妨害」と発言を中止されてしまえば、それまでのことだ。むしろ公判廷に拘束されるより、『安応七歴史』の執筆に集中し、可能なら『東洋平和論』も書き上げたい。そう判断して高等法院に申し立てなかったから、2月19日付で死刑が確定している。
ウィルヘルムは、落ち着きはらった安の態度に、深い感動を覚えた。韓国天主教会の閔主教は、洪神父が旅順へ行くことに反対した。しかし、黄海道の教会で17歳の安に洗礼を授け、多黙(トーマス)と名付けた神父は、それを押し切って来たのだ。
2人の弟も、神父に同行している。前年12月17日、2人の弟と面会したとき、「天主教の尊父に聖事をおこなってもらいたい」と、安が依頼したのである。ひそかに期待しながら、洪神父の名を出さなかっただけに、久しぶりの再会を非常に喜んだ。
安重根は、獄中で『安応七歴史』に書いた。
天主教会の洪神父が、私に永生永楽の聖事を伝授するために、韓国からここにやってきた。私は洪神父に会って、夢のように、酔ったように、喜びと楽しみは尽きることがなかった。
もともと神父はフランス人で、パリの東洋伝道教会の神学校を卒業し、童貞を守り、聖職を志して、神父になったのである。神父は才芸にもすぐれ、博学で多くの事を知っており、英語、フランス語、ドイツ語、ラテン語などに熟達している。1890年ころ韓国に来ることを求めて、京城と仁川に数年間にわたり居留、1895、6年ころ、さらに黄海道にきて伝道しているとき、私を教えに導いて洗礼するに至った。
今日、この地で再会することができ、感慨無量である。神父は、53歳になられた。
3月8日に神父は、カトリックの教えの道理を説いて、9日は安重根の告解(懺悔)を聞き、10日にはミサの大礼により聖体授与式をおこなった。こうして3月11日、神父は韓国へ帰り、2人の弟は死刑執行にそなえ、亡骸を引き取るため旅順に残った。
旅順監獄署の第三舎九号房に収容された安重根は、2人の弟に習字の手本を差し入れさせ、房内で署に励んでいる。その力強い文字を見て、監獄医の折田督が水を向けた。
「通訳の園木末喜君が、立派な書を揮毫してもらって、掛軸に表装していた。いや、園木君が羨ましい」
「先生がお望みなら、気力が漲ったとき、書いて差し上げます」
「お願いできる? それは有難い」
「いずれ先生には、私の絶命を見届けてもらわねばならぬ。今のうちに、死んだ気になって、書かせて頂ましょう」
ニッコリ笑って約束すると、数日内に揮毫した。
  欲保東洋 東洋の平和を維持しようとすれば、
  先改政略 日本の侵略を改善しなければならない。
  時過失機 時間が過ぎて機会を失うと、
  追悔何及 いくら後悔しても無駄である。
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三月二十六日
いよいよ死刑執行の日を迎えた。明け方から曇天で、雨も降りはじめた。憲兵上等兵の千葉十七は、ハルピンから安重根らを護送し、旅順監獄署の看守に任ぜられた。そのとき「警察官心得一則」を、上官から渡されている。
≪非を治めるには、理をもってしなければならない。治を保つには、非常に戒めなければならない。たとえば酒を温めるには、その温度より勝る温度でなければ、温めることはできない。人を戒める者は、まず、先に己をただし、かつ己に注意して、人に及ぼすべきである≫
獄中の安を世話しながら、千葉は注目してきた。そして自分が、安の影響を受けていることを強く感じるようになった。人間として千葉が温められたのだ。東京から伝わる噂では、伊藤博文の月命日が26日だから、半年後の3月26日に執行とのことで、その通りになってしまった。
早朝、執行を知らされた安が、千葉に言った。
「あなたから頼まれたものを、いま書きましょう」
死刑が確定してから、『安応七歴史』に集中していた安は、3月15日に書き終えると、要望に応じて揮毫するようになった。2月末に通訳生の園木末喜が、「日韓友誼善作紹介」の書をもらったことで、日本人の間で安重根への畏敬の念が生じた。若い検察官が、厳寒の獄舎を気づかって靴下を差し入れると、安は謝礼に白い絹地に揮毫した。ますます達筆が冴え、"断指同盟"の手形に重みがある。
典国(監獄署長)も書いてもらったが、とても平看守では頼みにくい。ようやく数日前、意を決した千葉は、白い絹地を差し出したが断られた。
「今日はとても、その気になれません。どうか許して下さい」
しかし死刑執行の朝、書いてくれるというのだ。千葉は驚いたが、急いで筆と硯を用意すると、安は一気に筆を走らせた。
  為国献身軍人本分
      庚戌三月 旅順監獄中 大韓国人 安重根 謹拝
これは「国のために身を捧げるのは軍人の本文」という意味である。墨痕鮮やかに書き上げると、左手に墨を塗って手形を押した。その墨を拭きながら、安は千葉に語りかけた。
「あなたに親切にしてもらったことを、心から感謝しています。東洋に平和が訪れて、韓日の友好が甦ったとき、私は生まれ変わって、またお会いしたいものです」
「有り難うございます!」
そう叫んで、千葉が時計を見ると、午前8時55分を指していた。
    ・
絞首台は中2階に似た構造で、7つの階段を昇ったところが、炉を切って板で蔽ったようになっている。3人の看守に導かれて台上へ進んだ安は、白衣を映して顔色が蒼白いが、静かに3分間ほど祈祷した。
この祈りが終わって、午前10時4分、頸部に綱が掛けられた。直ちに看守が板の一端を踏むと、安の体は落下して宙吊りになり、折田医師が10時15分に絶命を確認した。

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