じじぃの「人の死にざま_1079_高宗 (朝鮮王)」

高宗 (朝鮮王) - あのひと検索 SPYSEE
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雲ヒョン宮.wmv 動画 YouTube
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高宗 (朝鮮王) ウィキペディアWikipedia)より
高宗(こうそう、1852年7月25日 - 1919年1月21日)は、李氏朝鮮第26代国王、後に大韓帝国初代皇帝。韓国併合後は大日本帝国の王族として徳寿宮李太王と称された。
【皇帝即位】
皇帝になってからも高宗の周辺は安定せず、1898年7月には皇帝譲位計画が、9月には金鴻陸毒茶事件(高宗・皇太子暗殺未遂事件)が起こっている。また、独立協会を中心とした独立派に対する旧守派の妨害によって政府内は暴力的政争の状態になり、ついには独立協会は解散、議会政治への道も閉ざされてしまう。皇帝は光武改革という近代化政策を推し進めるが、財源の一元化の失敗、脆弱な財政基盤を強化するための増税が民衆反乱を招き、改革は頓挫してしまう。
東学の残党も活発な運動を続け、1899年に英学の反乱を起こしている。
一方、満州中国東北部)と朝鮮を挟んで、ロシアと日本の帝国主義国家間対立は深刻化し、1904年 - 1905年に日露戦争が勃発している。地政学的な国策から対朝鮮政策を強化したい日本は、戦局が優位に進む中1905年4月に韓国保護権確立を閣議決定、7月29日には、アメリカとの間で、桂・タフト協定を結び、アメリカのフィリピンでの権益を認める代わりに朝鮮での権益を認めさせ、8月には第2回日英同盟を締結し、ロシアの南下に対抗する拠点として朝鮮支配の確約を得た。また日露戦争中に高宗はロシアに事大するための密使を派遣していたが、日本は高宗の密使を発見し、高宗の条約違反という弱みを握ることとなった。
列強の支持を取り付けた日本は、日露戦争勝利後、11月17日第二次日韓協約(乙巳保護条約)を締結し、大韓帝国の外交権を剥奪し、日本の保護国とした。承政院日記には、高宗が保護条約反対派の大臣を宥める記述が残っている。
一方、これらの動きの中で高宗は、1907年6月に行われる第2回万国平和会議に秘密裏に特使を派遣し、ハーグ密使事件を起こすが、既に日本の権益を認めていた列強からは相手にされなかった。この事件により、日本の意を受けた李完用などの勢力は、皇帝退位へと動き、7月20日皇太子(純宗)への譲位に追い込まれ太皇帝となる。東アジア最後の太上皇である。
日韓併合
1910年(明治43年)8月の日韓併合にともない、徳寿宮李太王の称号を受ける。1919年1月21日、三・一運動の起きるおよそ1ヵ月前に67歳で崩御した。毒殺の風聞が流れ、三・一運動を刺激した。日本の王公族徳寿宮李太王熈として1919年(大正8年)3月3日に国葬が執り行われた。御陵は洪陵である。
高宗は日米欧の列強諸国や宮廷内の権力争いの間に翻弄され、国を失った悲劇の皇帝であるが、外国勢力に頼りすぎる主体性の無さがかえって国内の混乱を招き、対外干渉を受け国を失った亡国の主という批判もある。

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『近代朝鮮と日本』 趙景達/著 岩波新書 2012年発行
日本の朝鮮保護国 (一部抜粋しています)
伊藤は「韓国皇室御慰問」の名目で1905年11月9日、漢城に入った。翌10日、伊藤は早速天皇の親書を高宗に渡し、朝鮮の保護国化を提議した。しかし、翻訳の問題もあり、本格的会議は15日に持ち越された。
この日、会談は3時間半にも及んだが、当時病身でありながらも、高宗はこれまでの日本の朝鮮政策を非難するとともに、外交権を失う保護条約の終結に反対した。伊藤は無理強いしたが、高宗は「政府臣僚」や「一般人民」にも諮る必要があるとして拒絶した。伊藤は、「君主専制国」の韓国では皇帝の意志だけで決められるはずだし、いたずらに決定を延期する場合は韓国にとって不利益になると脅迫した。実際日本には、保護条約の締結が無理となった場合には、最終的に韓国政府への通告と外国への宣言のみのよって朝鮮の保護国化を成しとげるという方法もあった。それは戦争行為に直結する。しかし大韓帝国では、「万世不変の専制政治」を謳いながらも、国際条約の終結については、議政府会議を経た議案を中枢院が審議して可決しなければならないという国内法があった。議政府管制と中枢院管制である。伊藤はひとまずこれを了承し、翌16日に大臣たちと会談することになった。
そして16日、伊藤は各大臣に条約終結を迫ったが、9人の大臣はみなこれを拒否した。山場は翌17日である。大臣たちは互いに拒絶の意志を確認し合ったが、日本の脅迫は軍事力を後ろ盾とするものであった。
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条約終結が決するや、韓圭ソルは皇帝のもとに走ろうとしたが、憲兵に阻止された。激墳のあまり卒倒すると、林権助は「水でも頭に掛けて冷やして置けば宜い」と平然と言い放ったという。およそ、一国の宰相に対する言動ではない。韓圭ソルは監禁されたのちに、伊藤から多数決で条約終結の調印をするように迫られたが、殉国の覚悟を口にして最後までこれを拒否した。そのため、第二次日韓協約(乙巳保護条約)は外部大臣朴斉純と特命全権公使林権助の署名による調印となった。
署名、捺印が終了したのは18日深夜1時半頃である。外部大臣の邸璽(職印)は、日本人外交官が憲兵隊を引き連れて外部大臣官邸から奪ってきた。そのため調印が遅れた。まるで、やくざの所行である。この調印は、韓国の国内法である中枢院管制を無視したものである。また、高宗は調印の知らせを聞くや涙を流して吐血し、脅迫による調印だとして大臣らの無能をなじるとともに、「赤子」の決起を各地に呼びかけよと激高した。保護条約は、脅迫による調印強制であることは明確であって、本来なら国際法的にも認められようはずがない代物である。
保護条約の終結が知れわたるや、漢城は騒然となった。漢城府民は条約終結も未明から外に出て、満都は白衣だらけとなった。王宮には数千人が押し掛け、悲憤慷慨の演説をする者や檄文を配布する者などであふれた。
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保護条約の終結によって、韓国には統監府が設置され、統監が派遣された。漢城平壌・釜山・仁川・木浦・群山などの要地や開港場には理事庁が置かれた。これは従来の領事館業務を行うとともに、条約義務履行の名目のもとに地方施政を監視する任を負った。
初代統監に就任したのは伊藤博文である。伊藤は05年12月21日に任命され、総監府は、韓国外部を庁舎として06年2月1日に開庁した。

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