じじぃの「人の死にざま_1058_西岡・常一」

西岡常一の相関図 - あのひと検索 SPYSEE
http://spysee.jp/%E8%A5%BF%E5%B2%A1%E5%B8%B8%E4%B8%80/52872/network
映画『鬼に訊け 宮大工 西岡常一の遺言』予告編 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?gl=JP&hl=ja&v=fydWcQLpVtE
NHKアーカイブス あの人に会いたい 「西岡常一 2006年放送
「樹齢千年の木は 千年もたせなければならぬ」
飛鳥時代の優れた木造建築技術を現代に伝える宮大工。数百年に一度という法隆寺の全伽藍解体大修理の棟梁を務め、奈良の名刹薬師寺の金堂および西塔を1300年前の様式で再建させた。「宮大工は1000年先を見据えた仕事をしなければならぬ」など代々法隆寺大工棟梁に伝えられてきた口伝の数々を語る。
http://www.nhk.or.jp/archives/anohito/past/2006/089.html
西岡常一 ウィキペディアWikipedia)より
西岡常一(1908年(明治41年)9月4日 - 1995年(平成7年)4月11日)は、宮大工。
【人物】
奈良県斑鳩町法隆寺西里出身。祖父西岡常吉、父西岡楢光はともに法隆寺の宮大工棟梁であった。
戦後は法隆寺の工事が中断され、「結婚のとき買うた袴、羽織、衣装、とんびとか、靴とか服はみんな手放してしもうた。」と述懐する如く、生活苦のため家財を売り払わざるをえなくなった。一時は靴の闇屋をしたり、栄養失調のために結核に感染して現場を離れるなど波乱含みの中で法隆寺解体修理を続けるが、その卓抜した力量や豊富な知識は、寺関係者のほか学術専門家にも認められ、1956年(昭和31年)法隆寺文化財保存事務所技師代理となる。さらに1959年(昭和34年)には明王院五重塔、1967年(昭和42年)から法輪寺三重塔(1975年(昭和50年)落慶法要)、1970年(昭和45年)より薬師寺金堂、同西塔などの再建を棟梁として手掛ける。これらのプロジェクトにおいては、時として学者との間に激しい論争や対立があったが、西岡は一歩も引かず自論を通し、周囲から「法隆寺には鬼がおる。」と畏敬を込めて呼ばれていた。
特に薬師寺金堂再建に関しては『プロジェクトX』(日本放送協会)で取り上げられて紹介されている。また途絶えていた「槍鉋(ヤリガンナ)」などの道具の復活を行う。
飛鳥時代から受け継がれていた寺院建築の技術を後世に伝えるなど「最後の宮大工」と称された。文化財保存技術者、文化功労者斑鳩町名誉町民。実弟西岡楢二郎も宮大工として父や兄を支えた。また、西岡棟梁の唯一の内弟子が小川三夫である。
1995年(平成7年)、がんで死去。

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『不安の力』 五木寛之/著 集英社 2003年発行
働く場所が見つからない不安 (一部抜粋しています)
先日は斑鳩(いかるが)を訪れました。
法隆寺の脇を通る小道を歩いていて、ふと宮大工の西岡常一(にしおかつねかず)さんのことを思い出しました。西岡さんは昔ながらの手法で厳しく守り、法隆寺五重塔の修復や薬師寺の西塔の再建に力を尽くした名棟梁です。テレビ番組で取り上げられたり、木と人間を語る本を出版されたりしていますから、ご存知の方も多いでしょう。
西岡さんのことが頭に浮かんだのは、テレビ制作会社のスタッフ募集に人が集まらないという話を聞いて以来、「ものづくり」ということが気にかかっていたからでしょう。
西岡さんはじつに厳しい棟梁だったそうです。道具箱を開けて、すぐに仕事を取りかかれるようにきちんと道具の手入れができていないと、怒鳴られるだけでは済まなかった、とお弟子さんが述懐しています。
厳しいからお弟子さんが育ったわけです。もちろん、厳しさに耐えきれずに途中でやめていったお弟子さんもいたでしょう。自分の才能に見切りをつけた人もいたかもしれません。けれど、そういう人も棟梁に思慕の念を持ち続けているのです。棟梁の棟梁たるゆえんでしょうね。
そんな西岡棟梁も不遇の時代があったと聞きます。
宮大工は神社仏閣を専門に作ります。民家は建てません。ですから、神社仏閣の建立、再建、修復が行われないと、仕事がないのです。仕事がなければ、当然、収入もありません。
そういう時期が西岡さんにもありました。民家を建てたらどうですか、と言う人もいたそうですが、西岡棟梁はがんとして受けなかった。
その代わりに桶を作ったそうです。が、ぎりぎり生活をまかなえる数しか作らない。そうやってなんとか生活をしのぎながら、道具の手入れは怠らず、じっと待ち続けた。そして、ようやく大きな仕事をする機会が訪れ、その仕事を見事にこなして賞賛を浴び、その後は途切れることなく仕事を続けたということなのです。
不遇時代の西岡さんが不安を感じたかどうかは、いまとなっては知る術はありません。ただ、不安を感じたとしても、それに押し潰されなかったことは事実です。
たぶん、自分は宮大工なのだという誇りが西岡さんにはあったのだろうと思います。その誇りは他と比較しての優越から生じたものではなく、自分にはこの道しかないという絶対的な覚悟から生まれたものでしょう。
就職ができるだろうか、と不安を抱いている若い人に、就職ができるかどうかを心配する前に、自分がなにをしたいのか、をまず考えた方がいいのではないかと言いたい気がしています。
私はこれがしたいのだ、というものが見つかれば、あとは目指すものに向かって歩を進めていくだけではないでしょうか。
あるいは、これをしているときが私なのだ、という言えるなにかが見つかれば、たぶん、そのなかのために人生を棒に振ってもかまわないという覚悟を決められるのではないかと思います。

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西岡常一 Google 検索
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