じじぃの「人の死にざま_1051_篁・牛人」

篁牛人記念美術館 老子出関の図 画像
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富山市民俗民芸村 | 篁牛人記念美術館
篁牛人は、卓越した技術によって、独自の画境を創出し、日本画壇の中でも、ひときわ異色の存在として注目される画家です。  
作品は、日本や中国の故事・伝説などを主な画題として、高い精神世界を画面上に展開しています。
彼は渇筆画法という、にじみを極力使わずに墨を描画紙にすりこむようにして描く独自の方法と、弾力のある長く細い線を描き、豪放で美しい独自の世界を構築しました。
http://www.city.toyama.toyama.jp/etc/minzokumingei/takamura/takamura.html
富山ミュージアムバスで篁牛人の水墨画の世界へ Toyama Just Now
県水墨美術館では、僧と虎が対峙する「国清寺」(紙本墨画・屏風六曲一双)や、不老不死の霊薬をもつとされる伝説上の仙女・西王母を描いた「西王母と小鳥」、「婆羅門の図」(紙本墨画・額装)、「老子出関の図」(紙本墨画・額装)、篁牛人記念美術館所蔵の「蛟龍」(紙本墨画彩色・屏風六曲一双)、「竹林虎」(紙本墨画・襖<二面>)、「羅浮仙・林和靖」(紙本墨画・屏風六曲一双)など見ごたえのある作品が並ぶ。篁牛人記念美術館では、豊満な体をもつ鬼女の姿を描いた「雪山淫婆」、大作の「山姥と金時」などの作品が鑑賞できる。
http://toyama-brand.jp/INT/?tid=102150
富山県水墨美術館 富山が生んだ−水墨画の鬼才 篁牛人展
篁牛人(1901〜1984)は、富山県富山市にある善照寺の次男に生まれました。図案家として出発しますが、昭和15年頃から画作に専念し、ピカソや小杉放庵の影響を強く受けたといいます。復員後の昭和22年頃からは、かすれの出る渇筆描法を用い始め、弾力のある線によるふくよかな人物表現など、力強い独自の画風を確立しました。
幼い頃から培われた東洋の思想を基盤とした、故事や仏教説話に関する作品を展開した牛人は、特定の師につくことなく、自由奔放な生き方で生涯を貫き通しました。それゆえ評価は遅れましたが、たぐいまれなるその画才は、近年、再評価されてきています。
http://www.pref.toyama.jp/branches/3044/exh_0506.htm
『二列目の人生 隠れた異才たち』 池内紀/著 晶文社 2003年発行
篁牛人 志功を見返す (一部抜粋しています)
画家篁牛人を知らせてくれたのは富山市在の宮内伸子さんである。もともと東京の人で、職を得て富山行った。いま、その地の大学でドイツ語を教えている。
「タカムラ・ギュウジンっていうんです……」
彼女は日ごろ、あまり口数が多くない。しかし、そのときは電話口でよくしゃべった。医師森田和夫氏のことも、宮内さんを通して知った。資料を送るという。数日後に横長、100頁たらずの本が届いた。富山市教育委員会編で平成元年(1989)9月刊。タイトル『篁牛人の画集』につけて、「水墨・渇筆画の世界」と添え書きがある。
画集をひらきながら、私は何度も名前をくり返した。姓と名が、どこかチグハグなのだ。タカムラは「ア」が多くて高く澄んだひびきをもち、いかにも軽妙だ。ふくよかな、舌ざわりのやわらかい果実を思わせる。これに対してギュウジンは、どうだろう。骨ばった痩せ牛? 固くて毛の粗い外皮? 名前は偶然の容れものなのか。それとも何かしら内的必然性といったものをもつのだろうか。
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神通大橋に近い富山市石坂に善照時という真宗の寺がある。篁牛人は明治34年(1901)この寺に生まれた。本名は浄信、幼名は光麿。10人兄弟の2男である。絵が好きな少年は、16歳のとき高岡工芸学校本科図案科に入った。東京に出て美術学校に進みたかったが、子沢山な寺の伜に許される道理がない。工芸学校を出たあと、物産館の図案助手になった。代用教員をした。26のとき富山県売薬同業組合図案部勤務。今風にいえば薬箱のデザインやポスターを描いていたわけだ。かたわら、ひとりこつこつと勉強していた。仏典や老子荘子を読む。ふだんはおとなしい男が、酒を飲むと「天才」を豪語して高慢になる。
商工省工芸展などで何度も賞をとったが、当人はそんな自分に不満だったのだろう。東洋思想の本を濫読。あるいはしばしば上京して展覧会を見てあるく。岡本一平や小杉放奄を知った。藤田嗣治に心酔した。36のとき棟方志功と知り合った。画集につけられた年譜には、志功との交友のはじまる翌年のところに「図案の制作をやめ、絵画に専念」としるされている。
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絵を描くとき、牛人は酒を一滴も飲まない。図案で鍛えた人には、どこか職人風の遊び心があったのだろう。鼻歌まじりに、あるいはひとりごとをいいながら筆を走らせる。
「なんかかんか、いいながら描いていましたよ」
ひょいとイタズラをする。牛人の絵をよく見ると、思いがけないところにカタツムリがいる。トンボがとまっている。尺取り虫が這っている。めだたず、みすてられた、孤独なものが好き。この点、詩人森田和夫と同じである。
「ときめくものがきらいなのね」
牛人の描いた女性は、世に知られた志功の美人と同じく、ゆったりとふくよかで、頬の大きな童顔をしている。だが、あきらかにちがうだろう。志功の女人が目の大きな銀座の美人ママさんを思わせるのに対して、牛人作は、ふくよかな中に凛とした気品がある。張りつめている。とびきり上質のエロティシズムをそなえ、天平美人であるとともに観音像でもあるのだろう。こころもち森田昌子さんにも似ている。
「観音様の手は、赤ん坊の手だっていってましたね」
夜は「番頭」のお酌で酒を飲む。毎日、一升瓶がカラになった。
あるとき森田夫妻に、自分の絵は世に出るかどいうか、真剣な顔でたずねたそうだ。医師は遠慮会釈がない。きっと名が出るだろうが、それは死んでからのことだと答えた。
「死後かァ、さみしいノ―」
牛人は下を向いて、つぶやくようにいったそうだ。

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