じじぃの「人の死にざま_1045_A・ウォレス」

ルフレッド・ラッセル・ウォレス - あのひと検索 SPYSEE
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Alfred Russel Wallace: A Rediscovered Life 動画 YouTube
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Wallace and Darwin 動画 YouTube
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ウォレス線 Google 検索
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特集:ダーウィンに なれなかった男 2008年12月号 NATIONAL GEOGRAPHIC.JP
進化論の提唱者はダーウィンとされているが、当時まだ駆け出しの研究者だったウォレスが、ダーウィンとほぼ同時期にこの理論を導き出していたことは、科学史ではよく知られたエピソードである。生前ウォレスは、ダーウィンの年下の研究者仲間として知られただけでなく、社会思想にまでおよぶ幅広い執筆活動で名をなした。しかし、1913年に死去した後は、その名はしだいに忘れ去られていった。
http://nationalgeographic.jp/nng/magazine/0812/feature01/
ルフレッド・ラッセル・ウォレス ウィキペディアWikipedia)より
ルフレッド・ラッセル・ウォレス(Alfred Russel Wallace, 1823年1月8日 - 1913年11月7日)は、イギリスの博物学者、生物学者、探検家、人類学者、地理学者。アマゾン川とマレー諸島を広範囲に実地探査して、インドネシアの動物の分布を二つの異なった地域に分ける分布境界線、ウォレス線を特定した。そのため時に生物地理学の父と呼ばれることもある。チャールズ・ダーウィンとは独立して自然選択を発見し、ダーウィンの理論の公表を促した。また自然選択説の共同発見者であると同時に、進化理論の発展のためにいくつか貢献をした19世紀の主要な進化理論家の一人である。その中には自然選択が種分化をどのように促すかというウォレス効果と、警告色の概念が含まれる。
心霊主義の唱道と人間の精神の非物質的な起源への固執は当時の科学界、特に他の進化論の支持者との関係を緊迫させた。イギリスの社会経済の不平等に目を向け、人間活動の環境に対する影響を考えた初期の学者の一人でもあり、講演や著作を通じて幅広く活動した。インドネシアとマレーシアにおける探検と発見の記録は『マレー諸島』として出版され、19世紀の科学探検書としてもっとも影響力と人気がある一冊だった。
【死】
1913年11月7日に、10年前に建ててオールド・オーチャードと呼んでいた自宅で死去した。90歳であった。彼の死は多くの新聞で報道された。ニューヨークタイムズは「挑戦的な研究によって世紀の思想を変革し発展させたダーウィン、ハクスリー、スペンサー、ライエル、オーウェンらを含む偉大な知識人グループの最後の巨人」と呼んだ。
友人の一部はウェストミンスター寺院に埋葬されるよう提案したが、夫人はウォレスの意思を汲み、ブロードストーンの小さな墓地に葬られた。イギリスの科学者はウォレスのレリーフウェストミンスター寺院ダーウィンの墓の隣に置くための委員会を作り、レリーフは1915年11月1日に公開された。
ウォレス線 ウィキペディアWikipedia)より
ウォレス線(Wallace Line)とは、インドネシアのバリ島、ロンボク島間のロンボク海峡からスラウェシ島の西側、マカッサル海峡を通りフィリピンのミンダナオ島の南に至る東に走る生物の分布境界線のこと。これより西の生物相は生物地理区のうちの東洋区に属し、東はオーストラリア区に属するというもの。1868年、アルフレッド・ラッセル・ウォレスが発見したことからこの名がついた。
氷期には海面が下降し、東南アジア半島部からボルネオ島、バリ島までの一帯がスンダランドと呼ばれる陸続きとなっていた。同様に、パプアニューギニアとオーストラリアはサフルランドを形成していた。しかし、スンダランドの東側とサフルランドの西側は陸続きにはならなかったことから、生物相が異なる状態が現在に至るまで続いているものと考えられている。

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アシモフの科学者伝』 アイザック アシモフ/著 小学館 1995年発行
ダーウインとウォレス――生命の起源を探究した2人 (一部抜粋しています)
これまでに書かれた本の中で、もっとも驚くべき本が、1859年、つまり1世紀ほど前にあらわれた。初版は1250部しか印刷されず、すべて発行の当日に売り切れてしまった。さらに印刷されたが、それもたちまち売り切れた。
この本は、烈火のような議論を巻き起こした。公然と非難する人もいれば、弁護する人もいた。そして、最後には勝った。それは科学的な本で、読みやすいものではなかった。内容のうちのいくつかは、現在の知識に照らせば、すべて旧式なものになっている。が、この本は、いまも決して人気を失っていない。ペーパーバックの本なら数ドルで買うことができる。
本の題名は『自然選択、すなわち生存競争における好ましい種族の保存による種の起源について』である。私たちは、これを縮めて『種の起源』といっている。著者は、イギリスのチャールズ・ロバート・ダーウィンという博物学者であった。
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ダーウィンは、南アメリカエクアドルの沖にあるガラパゴス諸島で、1つの事実に気がついた。この諸島には、イギリスのフィンチ(スズメ科)に似た小鳥が住んでいたが、島によって住んでいる小鳥の「種」がそれぞれ違っていた。これらの小鳥は、今日でも「ダーウイン・フィンチ」と呼ばれているが、彼はそれぞれ少しずつ違う14種以上のフィンチを発見した。あるものはくちばしが長く、ある種のものはくちばしが短く、あるものはくちばしが薄く、ある種のフィンチはくちばしが曲がっていた。
では、なぜそれぞれの小さな島に、それぞれの種のフィンチがいるのだろうか。はじめは一種だけだったのが、別な小鳥に離れて住むうちに別々の種になったのではないだろうか。そして、種子、毛虫、昆虫のエサのうち、自分が食べるエサに応じて、ついばみやすいようくちばしも変わったのではないだろうか。1つの種が、ほかの種に変わることがあるのだろうか。
ガラパゴス諸島をあとにして、ビーグル号は太平洋を横切り、オーストラリアとその沿岸の諸島の港に停泊した。
ダーウインはカンガルーやウォンバット、ワラビーなどがオーストラリアだけにいて、ほかのところにはいないことを不思議に思った。
オーストラリアは、いまは大きな島だが、かってはアジアの一部であったに違いない、と彼は推理した。が、のちに、あいだに海ができて、オーストラリアは大陸本土から切り離されたのだ。本土から切り離されたあと、島に住む生物たちは変化し、新しい種があらわれた。ダーウィンは「種は変化する」という結論に到達した。
ダーウィンは帰国してから、このような種の変化について、何年も考え続けた。彼の時代までは、種の喧嘩が可能だと信じる人は、ほとんどいなかったし、その変化を説明する適切な理由を考え出した人も、ひとりもいなかった。ダーウィンは、理由を考え出させばならなかった。
そのころ、彼は、T・R・マルサスという牧師が書いた有名な本を、たまたま読んだ。マルサスはこう主張していた。人口の増加は、つねに食糧供給の増加よりも早い。だから、ある数の人間は、つねに飢えて死ななければならない。
確かにそうだ、とダーウィンは考えた。どんな動物でも、手元にあるエサで生きていける数よりも、ずっと多くの子供を産む。そのうちの何匹かは、ほかのものに席をゆずるような形で死ななければならない。では、どの子供が死ぬことになるのか。ほかの子供と比べて、自分たちが生きている特定の環境にうまく適合できない子が死ぬことは、明らかだ。
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ダーウィンは、1844年にこの理論についての本を書き始めたが、1858年になっても、なお書き続けていた。彼の友だちは「早くしないと、誰かほかの人に先を越されるぞ」といって、ダーウィンをせき立てた。しかし、ダーウィンは急がなかった。結局、ほかの男が、先を越してしまうことになる。
その男は、アルフレッド・ラッセル・ウォレスというイギリス人で、ダーウィンより14歳も若かった。
ウォレスの一生は、ダーウインの生涯とよく似ていた。彼もまた、子供のころから、「自然」に興味をもった。そして、彼も遠い国への探険に参加した。
彼は、南アメリカの熱帯地方と東インド諸島(現在のマレーシアからインドネシアにかけて)へ旅した。東インド諸島の東側の島々は南下してオーストラリアにつながり、西側の島々は北上してアジア大陸につながっている。
彼は、このと東インド諸島の、東側の島々と西側の島々とでは、はえている植物や、住んでいる動物がまるっきり違うことに気がついた。
生物の2つの型の境界線は、さまざまな島の間をぬってカーブしてはいるものの、はっきりしていた。この境界線は、いまでも「ウォレス線」と呼ばれる。
1855年、ボルネオにいるとき、ウォレスは「種は時とともに変化するに違いない」と考え始めた。そして、1858年には、彼もまたマルサスの本を読んで考え始め「種の変化は、自然選択によって引き起こされる」と確信した。そして、それを「最適者の生存」と呼んだ。
しかし、ダーウィンとウォレスとでは、性格が違っていた。ダーウィンは、14年ものあいだ、本を書き続けていた。が、ウォレスは、そんなタイプの男ではなかった。彼は、新しいアイデアを思いついたら、机に向かって書き始め、2日で書き終えた。
彼は、その手書きの原稿を読んでもらい、批判してもらおうと、ある人のところへ送った。その送り先は、いうまでもなく、名高い博物学チャールズ・ダーウィンであった。
ダーウィンは、この論文を受け取ったとき、雷に打たれたかのようにびっくりした。それは、まさしく彼自身が考えていたことだった。ウォレスは、同じような言葉さえ使っていた。が、ダーウィンは、真の科学者だった。彼は、その理論を長年研究し続けてきたし、それを証明してくれる証人もいたのだが、すべての名誉をひとりじめしようとはしなかった。彼は、ウォレスの論文を、すぐにほかの有力な科学者たちにもまわした。ダーウィンとウォレスとが署名した論文が「リンネ学会雑誌」に出たのは、その年のうちのことである。
次の年に、ダーウィンは、ついに大著『種の起源』を出版した。彼の読者たちは、それが出るのを待ちかまえていた。
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ダーウィンとウォレスがなしとげた偉大な前進は、種の変化を説明するのに、自然選択の理論を考え出したことだ。さらに重要なことは、自然選択の理論を裏づけるための、膨大な数の証拠と論理的な推論とをダーウィンが示したことだ。
ダーウィンの本が出ると、生物学者たちは、いやおうなしに、彼の出した証拠を受け入れなければならなかった。それまで、種の変化は単なる憶測にすぎなかったが、1859年からは事実として受け取られた。それは、いまでもそうだ。
ダーウィンとウォレスの考えは、生物学者たちの物の見方を革命的に変えた。それによって生命の科学は、ひとつながりの科学となった。人間自身、生命の系統の中に、みずからを位置づけることができた。人間もまた、ほかの種と同じように、より単純な形から進化してきたのである。

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