じじぃの「人の死にざま_1022_川島・芳子」

川島芳子 - あのひと検索 SPYSEE
http://spysee.jp/%E5%B7%9D%E5%B3%B6%E8%8A%B3%E5%AD%90/9441/
キャラバンの鈴(東海林太郎 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=Ff-FuSRBg60
音樂劇《李香蘭川島芳子 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?gl=JP&hl=ja&v=7I4mSjwjHYI
歴史秘話ヒストリア 「王女はなぜ”女スパイ”になったのか?〜男装の麗人川島芳子の生涯〜」 NHK
小説「男装の麗人」が大ヒットし、芳子は一躍国民的アイドルとなる。芳子は各地のイベントや講演にひっぱりだことなり、ついにはレコードデビューまで果たす。当時発売されたSPレコードには彼女の貴重な歌声が録音されている。人前で発言する機会が多くなった芳子は、清朝の王女として、皇帝・溥儀を元首とする満州国の広告塔を進んで引き受けていった。しかし日中戦争が勃発すると、芳子は次第に時代の波に翻弄されていく。
http://www.nhk.or.jp/historia/backnumber/32.html
川島芳子 ウィキペディアWikipedia)より
川島芳子とは清朝の皇族粛親王の第十四王女である。
親王の顧問だった川島浪速の養女となり日本で教育を受けた。1927年に旅順のヤマトホテルで、川島浪速の満蒙独立運動と連携して挙兵したが、中華民国軍との戦いで1916年戦死したバボージャブ将軍の二男で蒙古族のカンジュルジャプと、関東軍参謀長の斎藤恒が仲人をして結婚式をあげた。カンジュルジャプは早稲田大学を中退後1925年「韓紹約」名で陸軍士官学校に入学した。彼らは3年ほどで離婚した。その後上海へ渡り同地の駐在武官だった田中隆吉と交際して日本軍の工作員として諜報活動に従事し、第一次上海事変を勃発させたといわれているが(田中隆吉の回想による)、実際に諜報工作をやったのかなど、その実態は謎に包まれている。
戦後間もなく中華民国政府によって漢奸として逮捕され、銃殺刑となったが、日中双方での根強い人気を反映して現在でも生存説が流布されている。

                                    • -

『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
川島芳子(かわしまよしこ) (1907-1948) 41歳で死亡。 (一部抜粋しています)
本名金璧輝(きんへきき)。清朝王族、粛親王(しゅくしんのう)の娘として生まれながら、6歳のとき、満蒙独立の陰謀に疾走していた大陸浪人川島浪速(なにわ)の養女となり、日本で育てられた川島芳子は、長じて、奔放無比の行状で有名になる一方、満州事変、上海事変などで日本の参謀本部に協力して活躍し、時に拳銃を腰に下げた騎馬姿で大陸の荒野を疾駆したりしたので、「男装の麗人」「東洋のジャンヌ・ダルク」「大陸のマタ・ハリ」などと呼ばれた。
昭和8年、彼女が作詞した「キャラバンの鈴」は、東海林太郎によって歌われた。
「広い砂漠をはるばると
 駱駝(らくだ)に乗ってキャラバンは
 雲を踏み踏みやってくる」
そのために、太平洋戦争後の昭和20年11月、北平(いまの北京)で「漢奸」として、国民政府の憲兵に逮捕された。
芳子は阿片中毒のため憔悴(しょうすい)していたが、法廷では、自分は中国人ではない、すでに日本人である、といい、また日本武士道をたたえ、自分の行為はすべて中国民衆のためを思ってしたことである、中国奥地に逃避していた重慶政府に自分を裁く権利はない、と抗弁したがとりあげられず、昭和22年10月22日、死刑を宣告された。鼠色のジャケツに濃緑のズボン、黒ラシャのハーフコートを着た芳子は、その宣告を受けても平然と落着きはらっていた。
翌23年3月25日、午前5時ごろ、北京第一監獄の刑場で銃殺刑に処せられた。
執行官は語る。
「刑場に連れて来た彼女は落着いていた。罪名を読み上げ、処刑の旨を伝達した。遺言はないかと尋ねたが、別に何もいわなかった。常例の死刑囚に与える二つの饅頭(まんとう)は、食べたくないといい、手をふれなかった。前方をむいて歩かせ、数歩のところで、後頭部に弾丸が撃ちこまれた」
昼近く第一監獄の裏門にはすでに新聞記者や弥次馬などが集まり、警官たちによって規制されていた。正午前、古アンペラで覆われ、それを煉瓦の重しでおさえられた死体が、担架で運び出された。死体は、日本人の僧侶古川大航老師の願いにより、彼に引き渡された。
     ・
老師は遺骸を白布につつみ、上から5色の花模様を刺繍した布をかぶせてトラックに載せ、朝陽門外の日本人墓地へ運んで、読経の下に火葬に付した。彼女の獄衣から遺書が出てきた。それには、
「家あれども帰り得ず
 涙あれども語り得ず」
と、書いてあった。

                                    • -

川島芳子 Google 検索
http://www.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GZAZ_jaJP276JP276&q=%E5%B7%9D%E5%B3%B6%E8%8A%B3%E5%AD%90&gs_l=hp...0l5j41l3.0.0.8.74446...........0.IIzRF2QkwkY&sa=X&oi=image_result_group