じじぃの「人の死にざま_996_木村・栄」

木村栄 - あのひと検索 SPYSEE
http://spysee.jp/%E6%9C%A8%E6%9D%91%E6%A0%84/12598/
[UTAU] キムラ項 (a song of z-term) [Mac音ナナ] 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=rcdkQNsNxiU
3D image of Kimura Crater by Terrain Camera of KAGUYA / JAXA 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=bZ0QW-u521I
歴史秘話ヒストリア 「いつだって天文ゴールドイヤー! 〜星々と日本人 はるかな物語〜」 2012年9月12日 NHK
●エピソード1  天文学と古代日本のあけぼの 意外な関係とは
今から1300年以上前、天空の星々と懸命に向き合う天皇が現れます。それは天武天皇。日本初の天体観測所をつくり、日食・月食からハレー彗星の出現まで克明に記録させた天武天皇のねらいとは? 日本のあけぼのと天文学の知られざる関係に迫ります。
●エピソード2 渋川春海(はるみ) 日本を変えた天文マニア
江戸時代、当時は予測が難しかった日食や月食の発生時期をズバリ的中させた男がいました。それが江戸無類の天文マニア・渋川春海。幕府の命を受けた春海は天文学の知識と技術を駆使して、ある難問に挑戦します。当時の人々を悩ませていた混乱を一挙に解決した、春海の偉業とは?
●エピソード3 世界に挑め!明治ニッポン天文学
地球の自転軸のずれの解明の為、1900年に国際共同観測が開始された。観測方法は同じ緯度から同じ星を観測してその位置がどのくらいずれるのかを調べるもので、日本は北緯39度8分にある国立天文台 水沢VLBI観測所で観測が行われた。ここで指揮をとったのが木村栄で、熱で望遠鏡のネジが緩むために暖房はもちろん人の体温も大敵だったという。観測したデータの集計などにはそろばんを使い、クモの糸で目盛りを作った。
世界を驚かせた小惑星探査機 はやぶさの快挙から100年前の明治時代、日本の天文学は世界から大きく遅れを取っていた。その日本がある発見をもとに世界から注目を集めることになる。その鍵となったのが昔ながらのそろばんとクモ。
各国のデータをもとに中間報告がまとめられ、日本は世界の水準に達していないと批判が向けられ、細心の注意を払って観測に臨むが何度やっても結果は変わらなかった。悩み続けた木村があらためて各国のデータを見比べていた時、木村は各国のデータの違いに一定の傾向があることを発見した。木村はこの新たな計算式を論文で発表すると、初めて自転軸のずれの法則性が解明された。
この計算式は世界的に認められ、木村はイギリス王立天文学会のゴールドメダルを昭和11(1936)年に授与される。木村によって飛躍した日本の天文学は、後輩たちによって引き継がれていった。大正7(1918)年には木村の後輩よって日食観測隊が結成され、昭和17(1942)年に太陽コロナの温度が100万度以上であることを世界で初めて解明した。
木村栄が所長を務めていた岩手県・水沢の観測所に、星をこよなく愛した宮沢賢治が大正13(1924)年に訪問。その1年4か月前に妹を亡くしていた賢治は、悲しみながら望遠鏡で暗闇に輝く星を見つめていたという。その数カ月後に「銀河鉄道の夜」の執筆を始める。
天文学者ヤン・オールトは、かに星雲から未知の電波を観測。それは超新星爆発を示す証拠で、星の誕生のナゾに迫る世界初の発見だった。この発見の手がかりとなったのは藤原定家が残した明月記だった。
日本人の星々への好奇心は今も受け継がれていて、超新星を70個も発見して世界4位の記録を持つアマチュア天文家の板垣公一さんは、毎晩夜空を見つめて星々が誕生する瞬間を待ち続けているという。
http://www.nhk.or.jp/historia/backnumber/137.html
木村栄 ウィキペディアWikipedia)』より
木村栄(きむらひさし、明治3年9月10日(1870年10月4日)- 1943年(昭和18年)9月26日)は、日本の男性天文学者、理学博士。
石川県金沢市出身。寺尾寿に位置天文学を、田中館愛橘に地球物理学を学んだ。木村の長女・伊登子は物理学者の茅誠司と結婚したので、茅は木村の娘婿にあたる。工学者の茅陽一と化学者の茅幸二は木村の孫。
【略歴】
・1936年(昭和11年) - 王立天文学会ゴールドメダルを受賞。
・1937年(昭和12年) - 第1回文化勲章を受章。
【その他】
・1970年に月面にあるクレーターにその功績を称えて「キムラ」(Kimura)の名が付けられている。しかし、提案したのはソ連科学アカデミーである。
・緯度観測、及びX,Yに続くZ項(木村項)を加えた新しい公式の元で計算するのに栄が使用した計算器は、そろばんである。
Z項 ウィキペディアWikipedia)』より
Z項(英: Z term)とは、岩手県水沢の緯度観測所初代所長であった木村栄により自転軸の傾きに関する方程式に加えられたZのことである。木村項ともいう。
【Z項導入の理由】
地球の自転軸は形状軸(南北軸)とは完全に一致せず、一定の周期で形状軸の周囲を移動する。
その公式はΔφ = X cos λ + Y sin λとされていたが、これでも完全に誤差を求めることはできなかった。そのため物理学者の木村栄はΔφ = X cos λ + Y sin λ + Zと修正し、正しい方程式として認められた。

                            • -

『日本の天文学―西洋認識の尖兵』 中山茂/著 (岩波新書 1972年発行
大学の天文学者 (一部抜粋しています)
天文学には、緯度・経度の決定のような地域的科学の面と、宇宙論のように地域に関係しない普遍的なテーマの中間に、「国際協力性」という面がある。南点の星は北半球からは見えないから、その観測はアフリカの喜望峰天文台に頼られねばならない。ヨーロッパでは昼間で星が見えない時に緯度の異なるアメリカでは夜で見える。このように、日月食、惑星の掩蔽(えんぺい)や日面通過の現象などは、緯度・経度の異なる地球上の2つ以上の点で観測することによって効果を挙げることが多い。そのために国際共同観測は18世紀にさかのぼり、19世紀には観測のネットワークが整備されてきた。天文学における成功に刺激されて地球科学その他の分野にも国際的協力が試みられ、そのため東洋に来航する欧米人科学者も多くなってきた。
非西洋国のなかでひとり19世紀に近代化をはじめた日本は、その東洋における位置という経度的特殊性のゆえに、国際共同観測網の上で重要な位置を占める。明治年間の日本の天文学は、この国際協力性のゆえに、先進国天文学者によって与えられた指導、および協力要請により大いに刺激された。
      ・
天文学の場合、純研究上の協力だけでなく、国際政治的な位相までからんでくる。1883年のローマにおける国際測地学会(日本は不参加)の要望をもとに、1884年に25ヵ国の代表が出席し、ワシントンで子午線会議が開かれた。その主な内容はそれまで本初子午線(経度原点)が数ヵ所あり、国によってちがった経度によって地図を作っていて混乱しているので、グリニッジ天文台の子午線の中点を通過する際に統一し、その点から東経・西経180度をとることを公式に採択したものである。グリニッジを経度原点とするイギリス中心主義にはフランス代表等の反対があったが、日本代表の菊池大麓(1855-1917)は大勢に同調した。この時から日本は東経135度によって標準時とすることになった。
天文学の国際会議の重要な論大は、ある共通のプロジェクトについて、国別に分担する分担研究の組織である。そのために天文学では他の学問にましてひんぱんに国際会議が開かれ、またその実質的な意味もある。
1895年の国際測地学会の時、ドイツのベルリン天文台長フェルステルの発議で、地球上なるべく経度が離れていて緯度の使徒しい箇所を数ヵ所選び、ここに国際共同緯度観測所を設ける案が、大多数の出席者の賛同を得た。当時日本の科学界は黎明期で、欧米人から見ると精密な天文観測を日本に委託するには時期尚早なりとして、ドイツ人技師を日本に派遣するような空気にあったが、大森房吉(1868-1923)らの主張により、日本人自らの手で観測することになった。
ついで1898年に開かれた同総会で、この案の実地が決議され、1900年から5ヵ年継続の予定で、日本の岩手県水沢もその観測所の一つに選ばれた。
そこで所長の木村栄(1870-1943)が1902年に発見した緯度変化のZ項は、当時の日本としては珍しい国際級の仕事として騒がれたものである。以後は緯度変化は日本のお家芸となり、水沢の緯度観測所はのちに第一次大戦後、大正11年から昭和11年にかけて、緯度変化国際中央局の栄をにない、第二次大戦後再び中央局に復活している。
木村栄 水沢 Google 検索
http://www.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GZAZ_jaJP276JP276&sa=X&oi=image_result_group&q=%E6%9C%A8%E6%9D%91%E6%A0%84%E3%80%80%E6%B0%B4%E6%B2%A2%20%E7%94%BB%E5%83%8F&tbm=isch