じじぃの「人の死にざま_995_渋川・春海」

渋川春海 - あのひと検索 SPYSEE
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天地明察 冲方丁 動画 YouTube
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大阪市立科学館渋川春海と江戸時代の天文学」展プレス説明BF分1 動画 YouTube
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歴史秘話ヒストリア 「いつだって天文ゴールドイヤー! 〜星々と日本人 はるかな物語〜」 2012年9月12日 NHK
●エピソード1  天文学と古代日本のあけぼの 意外な関係とは
今から1300年以上前、天空の星々と懸命に向き合う天皇が現れます。それは天武天皇。日本初の天体観測所をつくり、日食・月食からハレー彗星の出現まで克明に記録させた天武天皇のねらいとは? 日本のあけぼのと天文学の知られざる関係に迫ります。
●エピソード2 渋川春海(はるみ) 日本を変えた天文マニア
今年の5月に起きた金環日食のように、日食や月食の予測が正確にできるようになったのは現代になってからのことだった。しかし渋川春海は、この難題に江戸時代の始めに挑んでいた。映画「天地明察」の主人公である渋川春海は、天文マニアで日食予測の達人だった。そして、その情熱が日本発の偉業を成し遂げる。
江戸時代の始め、徳川秀忠が朝廷を訪問しようとしたとき、江戸と京都で別の暦が使われていたことから日にちが1日ずれて、朝廷を怒らせてしまうという事件が起きた。この頃、全国では元々使われていた宣明暦が不正確なために、約10種類の暦が使用されて混乱が起きていた。このことから、幕府は暦の統一に乗り出した。 暦の正確さを判断するためには、天文学の知識が不可欠なため、天文マニアの渋川春海が呼び出された。
春海は、7歳の頃には北極星が動いていることを発見するほどの天文マニアで、幕府から命じられた暦作りを進めるため、日本や中国の古今の暦を調査して、中国の授時暦が正確であるとわかった。春海は、授時暦の正確さを証明するため、日食と月食を予測することを主張した。4回に渡り予測を当てた暦だったが、5回目にはずれてしまい、授時暦の採用は見送られてしまった。その理由について考えた春海は、あらゆる方法で外れた理由を探し続けた。そして8年後、地球が球体であることによる影響が原因であると突き止めた。
春海が選んだ授時暦には中国の日食が記載されており、日本で日食が起きて春海が外してしまった予測の日には、中国で日食が起きていなかった。中国の暦を日本でそのまま使用する事が出来ないことを突き止めた春海は、自らの手で新たな暦作りに挑んだ。春海が完成させた暦は、次々と日食や月食を的中させ、初の国産暦となった。
渋川春海が作った暦には、日本人が作った国産暦ならではの工夫がされていた。暦には、日本ならではの季節の節目を取り入れていた。中国で作られた暦では、日本の風土にそぐわないものがあったためで、変更は20箇所以上に及び、八十八夜、二百十日などは春海が独自に取り入れた言葉だった。
●エピソード3 世界に挑め!明治ニッポン天文学
明治時代、日本の天文学はついに世界へ進出!しかし、その船出は散々…。日本は天文後進国のレッテルを貼られ、国際共同観測でもデータを信用してもらえません。逆境から一躍世界に実力を認めさせる原動力になったのは、昔ながらのソロバンと意外なものでした…。
http://www.nhk.or.jp/historia/backnumber/137.html
渋川春海 ウィキペディアWikipedia)』より
渋川春海(しぶかわはるみ、寛永16年閏11月3日(1639年12月27日) - 正徳5年10月6日(1715年11月1日))は、江戸時代前期の天文暦学者、囲碁棋士神道家。幼名は六蔵、諱は都翁(つつち)、字は春海、順正、通称は助左衛門、号は新蘆、霊社号は土守霊社。貞享暦の作成者。姓は安井から保井さらに渋川と改姓した。
【生涯】
江戸幕府碁方の安井家一世安井算哲の長子として京都四条室町に生まれた。
21歳の時に中国の授時暦に基づいて各地の緯度を計測し、その結果を元にして授時暦改暦を願い出た。ところが、延宝3年(1675年)に春海が授時暦に基づいて算出した日食予報が失敗したことから、申請は却下された。春海は失敗の原因を研究していくうちに、中国と日本には里差(今日でいう経度差)があり、「地方時」(今日でいう時差)や近日点の異動が発生してしまうことに気づいた。そこで、授時暦に通じていた朱子学者の中村綃斎の協力を得ながら、自己の観測データを元にして授時暦を日本向けに改良を加えて大和暦を作成した。春海は朝廷に大和暦の採用を求めたが、京都所司代稲葉正往家臣であった谷宜貞(一齋・三介とも。谷時中の子)が、春海の暦法を根拠のないものと非難して授時暦を一部修正しただけの大統暦採用の詔勅を取り付けてしまう。これに対して春海は「地方時」の存在を主張して、中国の暦をそのまま採用しても決して日本には適合しないと主張した。その後、春海は暦道の最高責任者でもあった土御門泰福を説得して大和暦の採用に同意させ、3度目の上表によって大和暦は朝廷により採用されて貞享暦となった。これが日本初の国産暦となる。春海の授時暦に対する理解は同時代の関孝和よりも劣っていたという説もあるが、中村綃斎のような協力者を得られたことや、碁や神道を通じた徳川光圀土御門泰福ら有力者とのつながり、そして春海の丹念な観測の積み重ねに裏打ちされた暦学理論によって、改暦の実現を可能にしたとされている。
この功により貞享元年12月1日(1685年1月5日)に初代幕府天文方に250石をもって任ぜられ、碁方は辞した。以降、天文方は世襲となる。

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『日本の天文学―西洋認識の尖兵』 中山茂/著 (岩波新書 1972年発行
江戸の天文方(その1) (一部抜粋しています)
春海自身は自分の観測によって冬至の時刻を決定する気はなかった。事実、彼の残した観測データは正確な値を出すために使えるようなしろものではない。
ただ、現行の宣明暦と授時暦で計算した冬至の日付に差がある場合、どちらが自らの観測によく合うか、定性的な判断のよすがにはなった。その結果授時暦の優位を人々に確信させる役には立ったはずである。
その認識の上に立って春海は、延宝元年(1673)授時暦による改暦を請う上表を出し、宣明暦の不備を論じ、延宝3年(1675)に至る3ヵ年6回の日月食を現行の宣明暦と授時暦、それに明の暦の大統暦の3暦で計算してくらべた「蝕考」を付けた。春海の心づもりとしては、天をして正否を証明させようと思ったのである。
ところが、6回のうちの最後の、延宝3年5月朔日食については、授時暦、大統暦が合わず、かえって宣明暦の方がよく合うといった椿事が起こった。
一般に中国式の太陰太陽暦の最終的なチェック・ポイントである日食予測にいたるまでには、太陽の運行、月の運行、両者の組合せ、という段階があり、各段階にも数多くの天文常数や因子が介在している。今、日食の予報に失敗したとしても、一体どの因子、どの常数が悪いのか、容易に見当がつかない。つまり分析して一つ一つの因子を孤立化させることができず、それらの組み合わさった全体が日食の際に正否を問われるだけである。だから暦算天文学は東洋の最高の精密科学でありながら、観測と合わせるために試行錯誤的に、経験的に数値を改良(あるいは時には改悪になっているかもしれない)することに終始して、理論的透徹性に欠けるところがある。過去の数多くの日食記録に照合してみて、統計的により多く合うものが良い暦法であるとし、理論的考察を怠ってきたのである。
このような性格のものであるから、授時暦は宣明暦よりも統計的によく合い、したがってすぐれている、というだけで、理論上絶対にすぐれているという保証はない。都合の悪い条件、諸因子が重なり合って、宣明暦の方が授時暦よりもうまく合うということも、当然ありうるのである。
しかし、この事件は春海にはショックであった。彼の拠っていた授時暦が拠るに足りないとすれば、それは彼の学問によって危機である。それだけではない。もはや授時暦による改暦を再び上表するわけにはゆかない。
そこで授時暦を改良した暦法を編み出さなければならない。当然のこととして、延宝3年(1675)に授時暦で予測して失敗した日食にも合わせられる暦法を編み出さねばならない。
その危機を乗り越えることは、春海にあっては、中国に対する劣等感という心理的障碍を克服しその権威への屈従から離れることであった、そして雌伏10年ついに、多小の数値を改編し、大和暦という自らの暦法を編み、天和3年(1683)に有史以来はじめて日本人の手になる暦法による改暦を上表したのである。
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春海の最大のオリジナリティといえば「里差」、つまり中国と日本の経度差の問題である。中国の暦法は中国を経度原点にとってあるから、それを日本で採用する場合、日月食の予報などでは経度差、つまり時間差を補正しなければならない。だから日本を経度原点とする日本の暦、つまり貞享暦を採用せよ、という主張が出る。こちらの方は当然といえばあまりにも当然のことである。しかし、それまでは経度差の認識なくして中国暦を採用してきたのだし、また認識したとしても、その値を出すことはできなかった。春海はマテオ・リッチの万国地図を見、それを地球儀になおして、里差の正確な認識を得ている。

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